昨日の朝日新聞に「無料プロバイダー苦戦」の記事。「無料はあやしい」と思う人が多いからだと。




2001ソスN1ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1412001

 寒燈といへどラジオを点すのみ

                           永井龍男

戦間近の句。夜間、敵機来襲の警戒警報か空襲警報が発令されたのだろう。灯火管制下なので、家の中の電灯はみんな消した。上空の敵に、灯火をターゲットにさせないためだ。だから、暗闇のなかで小さくぼおっと点っているのは、ラジオの目盛りの窓だけである。寒さも寒し。それでなくとも冬の燈は侘びしいのに、ラジオの燈だけとは実に侘びしい。いつ爆弾が降ってくるかもしれぬ状況なのだが、こんな思いもわいてくるのは、空襲慣れのせいだと言える。おそろしいもので、人は命の危険にも、あまりにさらされつづけると慣れてしまう。最初のパニック状態を、いつしか忘れてしまうのだ。ラジオだけは消さなかったのは、むろん情報を得るためである。後にほとんどが嘘八百の情報だったと知ることになるのだが、当時の人々は、情報をラジオに頼るしか手段がなかった(いまの大災害時でも、似たようなものだけれど……)。だから、どこの家でも一日中ラジオはつけっぱなしだった。聴取率は、限りなく百パーセントに近かったろう。庭先の防空壕に避難するときは、室内からコードを延ばせるだけ延ばし、ボリュウムをいっぱいに上げて耳を澄ませた。真っ暗やみの町内に、警報のサイレンとラジオの音だけが響いていた。そしていよいよ敵機来襲ともなれば、上空には煌々とサーチライトが交錯し、ときどき周辺に照明弾が落とされて、真昼のように明るくなる。爆弾(ほとんどが焼夷弾)が投下されはじめると、民家からあがる火の手も凄いが、伴う煙のほうがもっと凄くて苦しい。生まれてはじめて「死ぬ」と思ったのは、そのとき、五歳のときだった。そんな「日常」のなかから偶然にも生き残り、早朝の寒燈の下で、こんなことを書いている不思議。『文壇句会今昔』(1972)所収。(清水哲男)


January 1312001

 戸口より日暮が見えて雪の国

                           櫛原希伊子

の演出もないから、外連味(けれんみ)もない。こういう句もいい。雪国というほどではなかったが、ときに休校になるほどは降った故郷を思い出す。何も考えずに、戸口からぼおっと暮れてゆく雪景色を見ていた。土間の冷えは厳しいが、それよりも周辺が暗くなりはじめ、やがて風景が真っ白な幻想の世界一色へと変わっていく様子に魅かれていた。奥の囲炉裏で盛んにぱちぱちと火のはねている音も、懐かしい。だいたいが「夕暮れ」好きで、春も「あけぼの」ではなくて「夕暮れ」だ。性格がたそがれているのかもしれないけれど、たぶん「夕暮れ」からは、義務としての何かをしなくてもよい時間になるからなのだろう。とくに子供の頃は、夜になると、何もすることがなかった。テレビもラジオも、ついでに宿題もなかったので、ご飯がすんだら寝るだけだった。ランプ生活ゆえ、本も読めない。布団にもぐり込んでから、いろんなことを空想しているうちに、眠りに落ちてしまった。考えてみれば、「夕暮れ」以降の私は、鳥や獣とほとんど同じ生活をしていたわけだ。そうした無為の時間を引き寄せる合図が、長い間、私の「夕暮れ」だったので、いつしか身体に染みついたようである。大人になったいまも、夜に抗して何かをする気にはならないままだ。原稿も、夜には書かない。だから「夕暮れ」になると、一日はおしまいだ。大げさに言えば、その時間で社会とは切れてしまう。そんな気になる。ずっと以前に、その名も「夕暮れ族」なる売春組織が摘発されたことがある。新聞で読んで、ネーミングだけは悪くないなと思った。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


January 1212001

 マスクして我と汝でありしかな

                           高浜虚子

拶句だ。前書に「青邨(せいそん)送別を兼ね在京同人会。向島弘福寺」とある。調べてはいないが、山口青邨が転勤で東京を離れることになったのだろう。1937年(昭和十二年)一月の作。国内での転勤とはいえ、当時の交通事情では、これからはなかなか気軽に会うこともできない。そこで送別の会を開き、このような餞(はなむけ)の一句を呈した。お互いがいま同じようなマスクをしているように、同じように俳句を作ってきたので、外見的には似た道を歩んできたと言える。だが、振り返ってみれば「我」と「汝」はそれぞれの異なった境地を目指してきたことがわかる。これからも「汝」は「汝」の道を行くのであろうし、「我」は「我」の道を行く。どうか、元気でがんばってくれたまえ。大意はこういうことであろうが、目を引くのは句における「我」と「汝」の位置関係だ。青邨は虚子の弟子だったから、第三者が詠むのであればこの順序が自然だ。ところが、虚子はみずからの句に自分を最初に据えている。餞なのだから、こういうときには先生といえども、多少ともへりくだるのが人の常だろう。しかし、虚子はそれをしていない。「我」があって、はじめて「汝」があるのだと言っている。「我」を「汝」と対等視したところまでが先生の精いっぱいの気持ちで、それ以上は譲れなかった。いや、譲らなかった。大虚子の昂然たる気概が、甘い感傷を許さなかったのだ。マスクに覆われた口元は、への字に結ばれていたにちがいない。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)




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