季語がマスクの句

January 1212001

 マスクして我と汝でありしかな

                           高浜虚子

拶句だ。前書に「青邨(せいそん)送別を兼ね在京同人会。向島弘福寺」とある。調べてはいないが、山口青邨が転勤で東京を離れることになったのだろう。1937年(昭和十二年)一月の作。国内での転勤とはいえ、当時の交通事情では、これからはなかなか気軽に会うこともできない。そこで送別の会を開き、このような餞(はなむけ)の一句を呈した。お互いがいま同じようなマスクをしているように、同じように俳句を作ってきたので、外見的には似た道を歩んできたと言える。だが、振り返ってみれば「我」と「汝」はそれぞれの異なった境地を目指してきたことがわかる。これからも「汝」は「汝」の道を行くのであろうし、「我」は「我」の道を行く。どうか、元気でがんばってくれたまえ。大意はこういうことであろうが、目を引くのは句における「我」と「汝」の位置関係だ。青邨は虚子の弟子だったから、第三者が詠むのであればこの順序が自然だ。ところが、虚子はみずからの句に自分を最初に据えている。餞なのだから、こういうときには先生といえども、多少ともへりくだるのが人の常だろう。しかし、虚子はそれをしていない。「我」があって、はじめて「汝」があるのだと言っている。「我」を「汝」と対等視したところまでが先生の精いっぱいの気持ちで、それ以上は譲れなかった。いや、譲らなかった。大虚子の昂然たる気概が、甘い感傷を許さなかったのだ。マスクに覆われた口元は、への字に結ばれていたにちがいない。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


December 05122002

 マスクして人の怒りのおもしろき

                           上野さち子

語は「マスク」。冬に分類したのは、風邪が流行る季節だからだろう。昨今では、スギ花粉症に悩まされる人がよくかけているので、瞬間、別の季節を連想した読者もおられるかもしれない。句は、大きなマスクをした人が、盛んに怒っている図だ。通りすがりに見かけて、ちょっと足が止まった。その人は大声で何かを言っているのだが、マスクに声がこもってしまって、明瞭には聞き取れない。口も鼻も覆われているし、わずかに目の光りだけが怒りの形相を伝えてくる。まことに恐ろしげな目つきで、しかし、言葉はモゴモゴだ。笑っては失礼かと思うが、作者は思わず吹きだしそうになってしまった。それを「おもしろき」と単純素朴に押さえているところが、それこそ実におもしろい。何が原因で怒っているのかは知らねども、たしかに第三者として見ていると、句のとおりに「人の怒り」に笑いを誘われることがある。そして、そんなに、こっちが笑いたくなるほど逆上することもあるまいにとも思う。むろん、これは第三者の心の余裕が思わせることなのだが……。といって、句はマスクの人を揶揄しているのではない。むしろ、つくづく人間とは「おもしろき」生き物よと感心しているのである。『今はじめる人のための俳句歳時記・冬』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


December 11122003

 純白のマスクを楯として会へり

                           野見山ひふみ

語は「マスク」で冬。ぼつぼつ、マスクをしている人の姿が増えてきた。冬ですね。といっても、最近では花粉症の季節にもマスク姿をよく見かけるようになったから、この季語、将来はどうなるのかしらん。さて、作者は身構えて物を言わざるを得ない人に会いに行った。実際に風邪をひいていたのかどうかはわからないが、とにかくマスクを「楯(たて)」のようにして話したというのである。「純白の」に、相手に対する挑戦的な姿勢が強調されている。マスク一つで、心強くなれる人間心理は面白い。マスクに似た効果があるのはサングラスで、あれもかけ慣れると、なかなか外せなくなる。私は若い頃にいっとき、夜でもかけていた。礼儀上外したときなど、別に身構える相手ではないのに、なんだか自分が頼りなく思えて困ったものだった。古風な小説や映画に出てくる怪盗などがしばしばアイ・マスクをして登場するのは、一つには顔を見られたらいけないこともあるが、そのこと以上に、あれはまず自分自身を鼓舞するための道具なのではなかろうか。風邪のマスクに話を戻せば、SARS騒ぎの中国の街で、ほとんどの人たちがマスクをしている映像は記憶に新しい。あの場合はむろん自己鼓舞とは無関係だけれど、あれだけの人々がマスクをしていたら、それまでの人間関係が微妙に変化する部分もあったのではないかと思う。句が言うように、たかがマスクとあなどれないのである。『俳句歳時記・冬』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


January 2712006

 マスクしてマスクの人に目敏しよ

                           宮坂やよい

語は「マスク」。最近では花粉症を防御するために、春もマスク姿の人は多いが,元来は風邪の季節である冬季のものである。句が言うように、たしかに自分がマスクをしていると、他人のマスクにも目敏く(めざとく)なる。やや風邪気味なのか、あるいはインフルエンザに流行の兆しが出て来たのか、いずれにしても内心ではちょっと大袈裟かなと思っているのだ。が、街に出てみると、昨日までは気がつかなかったマスクをした人がけっこう目につく。そうか、堂々とマスクをしていても変じゃないんだと、ほっと安堵の一句である。掲句を読んで、すぐに田村隆一を思い出した。なんでも道端で転んで骨折したとかいうことだったので、鎌倉の病院まで見舞いにいったことがある。しかしその頃にはもう大分回復していて、杖を使えば外出もできるようにまでなっていた。面会室で会うと血色もよく、機嫌良くひとしきり病気と病院の話をしてくれた。そのなかでの他の話はすべて忘れてしまったけれど、「杖ついて表をあるくだろ。そうすると君ねえ,杖ついてる人が多いんだよ、鎌倉には」という話を妙に覚えている。鎌倉には爺さんが多いせいかなとも付け足したが,そうかもしれないが、杖姿の人が目についたのは、掲句の作者と同じような心理状態にあったからただろう。このことを逆に言えば、多くの他人は、人のことなど目敏くも何も、はじめから見ないか、見ても気がつかないのだ。むろん作者も,ある程度そういうことはわかっている。わかっちゃいるけど、「でもねえ」と逡巡するのが人情というものだろう。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 18112007

 悲しみの目のきは立ちしマスクかな

                           老川敏彦

こ数年のことですが、町を歩いていて奇異に感じることの一つに、先のとがったマスクがあります。とくに花粉の季節には、マスクをしている人が、まるでみんなで口を尖らせて歩いているように見えるのです。そんな人が集団でいると、文明が確実に人の姿を変えつつあるのかと、たかがマスクひとつに、不安な思いがわいてきます。掲句のマスクはどちらなのでしょうか。冬の、風邪の季節のものであるならば、昔からある、口にぴたりと接触するタイプのものなのかもしれません。吐く息が布にあたってすぐに戻る、その温かみは、今は病の内にあるのだという思いを、マスクを通して確認させられているように感じます。句はいきなり、「悲しみ」という強い表現で始まっています。明確な、言い換えれば選択肢を狭める語を使用しています。ただ、語の意味は明確ですが、その分、語られている対象は隠されているというわけです。目が感情を表すのは言うまでもないことです。しかし、顔の、ほかの部分を隠すことによって、目が表現しようとしている「悲しみ」が、さらに鮮明に表れてくることを、この句は語っています。隠すことによって、あるいは語らないことによって、より深い表現を獲得する。創作の不思議さを、感じさせる句でもあります。『現代俳句歳時記』(1993・新潮社)所載。(松下育男)


December 17122010

 腹の立つ人にはマスクかけて逢ふ

                           岡本 眸

句の中の季語の扱いが従来的な季節感を踏襲しているか、そうだとすれば、その中にどう作者の色が付加されているかいないか、或いは、季語を季節感と切り離して用いているか、ならば季節感がないのに季語を用いるところに伝統詩型の要件に対する作者の理解や工夫がどう生かされているか。そういう点も俳句評価の一角度だと僕は思うのだが、例えばハナから無季肯定の評者にはこういう角度は評価の外なのであろう。この句のマスクには冬期の季節感はありや。顔を隠すという意味においては、例えばコンビニ強盗の目出し帽と同じではないだろうか。その用途は四季を問わない。冬季の風邪を予防し自らの菌の飛散を防ぐというマスクの本意をどう「自分の事情」に引きつけてこなすか、そこに季語必須派の工夫、すなわち真の実力が見えてくる。新潮文庫『新改訂版俳諧歳時記』(1983)所載。(今井 聖)


August 0382014

 雲は王冠詩をたづねゆく夏の空

                           仙田洋子

者は、稜線を歩いているのでしょう。標高の高い所から、雲を王冠のように戴いている山を、やや上に仰ぎ見ているように思われます。「雲は王冠」の一言で詩に出会えていますが、夏の空にもっともっとそれをたづねてゆきたい、そんな、詩を求める心がつたわります。句集では、掲句の前に「恋せよと夏うぐひすに囃されし」、後に「夏嶺ゆき恋する力かぎりなし」があり、詩をたづねる心と恋する力が仙田洋子という一つの場所から発生し、それを率直に俳句にする業が清々しいです。また、「橋のあなたに橋ある空の遠花火」「国後(クナシリ)を遥かに昆布干しにけり」といった、彼方をみつめる遠い眼差しの句がある一方で、「わが胸に蟷螂とまる逢ひに行く」「逢ふときは目をそらさずにマスクとる」「雷鳴の真只中で愛しあふ」といった、近い対象にも率直に対峙する潔い句が少なくありません。詩に対する、恋に対する真剣さが、瑞々しさとして届いています。ほかに、「踏みならす虹の音階誕生日」。『仙田洋子集』(2004)所収。(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます