福島では65年ぶりの豪雪。シベリアでは零下60度を記録。心配だ。おーい、みんな大丈夫かあ。




2001ソスN1ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0912001

 猟夫伏せ一羽より目を離さざる

                           後藤雅夫

語は「猟夫(さつお)」で冬、多くの歳時記で「狩」の項目に分類されている。ねらっているのは、雉などの山鳥か、鴨などの水鳥だろうか。精神を集中し、伏せてねらうハンターの眼光炯々たる姿が彷彿としてくる。私のささやかな空気銃体験からしても、ねらいは「一羽」に定めないと必ず失敗する。あれもこれもでは、絶対に撃ち損ずる。猟の世界は、まさに「二兎を追う者は一兎をも得ず」なのだ。農村にいたころは、農閑期となる冬に猟をする男たちが多かった。犬を連れて、山奥に入っていく姿をよく見かけた。たまさか聞こえてくる猟銃音に、どうだったかと期待したものだ。獲物はたいていが雉か兎で、帰ってきた男たちが火を焚き、それらを手早く捌いていく様子に見ほれていた。ところで揚句とは逆に、ねらわれる鳥の様子を詠んだのが、飯田蛇笏の「みだるるや箙のそらの雪の雁」である。「箙(えびら)」は、矢を入れるための容器。空飛ぶ雁には地上の猟師たちが持つ「箙」の無数の矢数が見えており、いまにもそれらが飛んでくる気配に恐怖を感じているのであり、したがって飛列も大いに乱れることになる。雁からすれば、恐怖感で地上の「箙」しか眼中にはないだろうから、作者は「箙のそら」と単純化した。力強くも、雁の哀れを描いて見事と言うほかはない。このとき、蛇笏二十七歳。若くして、完成された句界を持っていたことがわかる。『冒険』(2000)所収。(清水哲男)


January 0812001

 読初の葩餅の由来かな

                           大橋敦子

来の「読初(よみぞめ)」は、新年にはじめて朗々と音読することを言った。男は漢籍、女は草紙などを読み上げたという。このデンからすると、私の場合は元日正午のニュース原稿読みとなる。戦後もしばらくの間は音読の習慣が残っており、毎朝学校に行く前の子供らの声があちこちから聞こえてきたものだが、いつしか廃れてしまった。いまのように黙読が主流の時代は、存外と短いのである。音読の教育的効果には高いものがあり、意味などわからなくとも、まずは音で身体に文字や文章を覚えこませる。そうやって身に付けた言葉は、いつの日か、意味を伴って開花する。例えて言えば、子供の頃に覚えた大人の唄の意味が、ある日突然に了解できるのと同じことだ。たぶん揚句では「黙読」だろうが、これを昔ながらの音読ととらえてみるのも一興だ。「葩餅(はなびらもち)」は正月のものだし、作者はさしせまっての必要があって由来を調べたのだろう。ならば、これを「読初」にしてしまおうと、家人の耳を気にしながら小声で読んでいる。あるいは、逆に家人か会合での誰かに読み聞かせた後で、「あっ、これが読初になった」と気がついたのかもしれない。。音読と解すれば、そんなほほ笑ましい情景が浮かんでくるので、私は強引に音読ととっておきたい気分だ。なお「葩餅」とは「餅または団子の一種で花弁の形をしたもの。特に、薄い円形の求肥(ぎゅうひ)を二つ折りにした間に、牛蒡(ごぼう)の蜜漬、白味噌、小豆あずきの汁で染めた菱形の求肥を挟んだものが著名で、茶道の初釜(はつがま)に用いる」と『広辞苑』にある。『葩餅』(1988)所収。(清水哲男)


January 0712001

 竹馬やいろはにほへとちりぢりに

                           久保田万太郎

いていの歳時記の「竹馬」の項に載っている句。小学時代以来の親友の篠原助一君(下関在住)は、会うたびに「なんちゅうても、テッちゃんとは竹馬(ちくば)の友じゃけん」と言う。聞くたびに、いい言葉だなあと思う。もはや死語に近いかもしれぬ「竹馬の友」が、私たちの間では、ちゃんと生きている。よく遊んだね。そこらへんにいくらでも竹は生えていたから、見繕って切り倒してきては、竹馬に仕立て上げた。乗って歩いているときの、急に背が高くなった感じはなんとも言えない。たしかアンドレ・ブルトンも言ってたけれど、目の高さが変わると世界観も変わる。子供なので世界観は大仰だとしても、この世を睥睨(へいげい)しているような心地よさがあった。揚句の「いろはにほへと」には、三つの含意があると思う。一つは竹馬歩きのおぼつかなさを、初学に例えて「いろはにほへと」。二つ目は、文字通りに「いろはにほへと」と一緒に習った仲間たちとの同世代意識。三番目は、成人したあかつきを示す「色は匂えど」である。それらが、いまはすべて「ちりぢりに」なってしまった。子供のころ、まだまだ遊んでいたいのに夕暮れが来て、竹馬遊びの仲間たちがそれぞれの家に「ちりぢりに」帰っていったように……。ここで「ちりぢりに」は、もちろん「ちりぬるを」を受けている。山本健吉は「意味よりも情緒に訴える句」と書いたが、その通りかもしれず、こんな具合に分解して読むよりも、なんとなくぼおっと受け止めておいたほうがよいような気もする。とにかく、なんだか懐かしさに浸される句だ。(清水哲男)




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