本日が仕事納め。といっても、休みはいつものように土日しかない。元日から仕事。因果な商売だ。




2000ソスN12ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 29122000

 うらむ気は更にあらずよ冷たき手

                           高浜虚子

の生まれた年(1938・昭和十三年)に、虚子はどんな句を作っていたのだろうか。と、岩波文庫をめくってみたら、十二月の句として載っていた。和解の情景だ。積年の誤解がとけて、二人は最後に握手を交わした。相手は、男だろう。女性であれば、握手などしない。いや、その前に、男女間で問題がこじれると(必ずしも恋愛問題にかぎらないが)、このようにはなかなか修復できない気がする。こじれっぱなしで、生涯が終わる場合のほうが多いはずだ。さて「冷たき手」だが、関係が元に戻った暖かい雰囲気のなかでの握手なのに、意外にも相手の手はとても冷たかった。その冷たさに、虚子は相手の自分に対する苦しみの日々を瞬時に感じ取っている。これほどまでに苦しんでいたのか、と。だから「うらむ気は更にあらずよ」と、内なる言葉がひとりでに流れでたのだ。「冷たき手」があればこその、暖かい心の交流がこに成立している。私にも、そういう相手が一人いた。といっても、立場は虚子の相手の側に近い。小学校時代に、いま思えば些細なことで、こじれた。私のほうが、一方的に悪いことをした。そのことがずうっと引っ掛かっていて、いつかは詫びようと思いつつ、ずるずると時間ばかりが過ぎていった。四十歳を過ぎてから故郷で同級会があり、この機会を逃したら永遠に和解できないような気がして、ほぼそれだけを目的に出かけていった。どんなに罵倒されようとも、許してくれなくとも謝ろう。思い決めて、出かけていった会に、ついに彼は姿を現さなかった。当然だ。亡くなっていたのだった。揚句に、そんな私は虚子と相手の幸福を思う。20世紀の終わりに、読者諸兄姉はどんなことを思われているのだろうか。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


December 28122000

 書をはこびきて四壁なり煤ごもり

                           皆吉爽雨

払い(すすはらい)の際に邪魔にならないよう、年寄りや病人が一室に籠ることを「煤ごもり」とか「煤逃げ」などと言う。足手まといになる子供らにも言うし、手伝わずに威張って自室に籠っている一家の主人にも言ったようだ。ただし、煤ごもりに用いられる部屋には、他の部屋の家具類が一時置き場として運び込まれるから、ゆっくりできる気分にはなれない。まさに「四壁」状態となる。つまり、普通の状態だと、部屋にはドアや襖などの出入り口があるので「三壁」。揚句の場合には、書物が出入り口にまでうずたかく積まれてしまっているので、どう見ても「四壁」状態とあいなったわけだ。出るに出られない。これでは籠っているのだか、押し込まれているのだかわからんなと、たぶん作者は苦笑している。ある程度住宅が広くないと、こういうことはできない。だから私には経験はないのだが、「煤ごもり」ではなく「煤逃げ」という言葉を拡大解釈すれば、ないこともない。何度か大掃除の現場から逃走して、映画館に籠ったことがあった。むろん親には別の理由をつけての話で、そんなときの映画には、さすがに身が入らなかった。そうした後ろめたい理由さえなければ、押し詰まってからの映画館は快適だ。大晦日は、特にお薦め。客が少ないからである。一度だけ、たった一人だったこともある。たしか、東京駅の横っちょにあったちっぽけな小屋(業界用語なり)だった。そうなると、逆にとても落ち着いては見ていられない気分だったけれど(笑)。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 27122000

 よい夢のさめても嬉しもちの音

                           五 筑

朝、まだ暗いうちに、近隣で餅を搗く音に目が覚めた。せっかく「よい夢」を見ていたのに、破られてしまった。しかし、破られても「もちの音」を聞くほうが嬉しい気分である。さあ、いよいよ正月だ。子供のころは農村に暮らしたので、私にも同じ体験がある。この時季になると、毎朝、どこからか「もちの音」が聞こえてくるのだった。正月を待つ心は、子供のほうが熱い。寝床のなかで聞いていると、なんだかとてもドキドキした。思い返すと、旧家ほど早めに搗いていたようだ。我が家のような新参の家や小さな家が、最初に搗くことはなかった。搗く順番に、何か暗黙の取り決めがあったような気がする。したがって、我が家では大晦日近くに搗いていた記憶がある。二十九日だけは「苦餅」となるので、搗くのは避けた。作者は江戸期の町場の人だろうから、搗いているのは商売人かもしれない。「引摺り餅」と言って、数人で臼や杵などの餅搗き道具一切を持ち、各戸を搗いてまわった。落語に「しりもち」という演目があり、貧乏で「引摺り餅」を頼めない男が、それでは世間体が悪いというので、大晦日の暗いうちにに一計を案じる。近所に搗く音さえ聞こえればいいんだろと、さも「引摺り餅」の男たちがやってきているかのように、数人の声色を使い分け、大声で餅搗きシーンを自演しはじめる。で、「もちの音」を出すために、女房の丸出しの尻を叩いた。だから「しりもち」。関西ネタだというが、哀しくも滑稽な噺ではある。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)




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