街が沈んでいる。酔っ払いも少ない。駅のベンチでサラリーマンが寝ていた時代も、はるかな昔。




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December 23122000

 京に入りて市の鯨を見たりけり

                           泉 鏡花

者は、ご存知『婦系図』などで知られる小説家。師であった尾崎紅葉の影響だろうか、俳句もよくした。季語は「鯨」で冬。日本近海には、冬期に回遊してくるからだ。揚句に詠まれた情景は読んで字のごとしだが、「見たりけり」の詠嘆はどこから来ているのだろうか。おそらくは、こうである。嵐山光三郎の『文人悪食』によると、鏡花は極度の食べ物嫌悪症であった。黴菌に犯されるのを恐れ、大根おろしまで煮て食べたという。酒は徳利が手に持てないほどに沸騰させてから呑み、茶もぐらぐら沸かして塩を入れて飲んだ。この潔癖症は書くものにも伝染し、「豆腐」の「腐」の字を嫌って「豆府」と書いたくらいである。したがって、当然ゲテモノも駄目。それも彼の言うゲテモノは常軌を逸しており、シャコ、タコ、マグロ、イワシは「ゲテ魚」として、特に嫌った。そんなわけで、鏡花が鯨肉を好きだったはずはない。まともな人間の食うものではないと思っていたにちがいない。それが、京の市場にちゃんとした売り物として陳列されていたのだから、たまげた。一瞬、背筋に悪寒を覚えたはずだ。鯨肉なんて「ゲテ魚」は田舎まわりの行商の魚屋が担いでき、安価なので貧乏人が仕方なく食べるものくらいの認識だったろう。京の都などというけれど、こんなものまで食うようではねと、皮肉も混じっている。すなわち「見たりけり」には、見たくないものを見てしまったという「ぞーっ」とした恐怖の気持ちが込められている。けだし「ゲテ句」と言うべきか(笑)。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 22122000

 父と娘に煤まじる雪朝の岐路

                           飴山 實

書に「尼崎にて二句」とあり、うちの一句。工業地帯だ。今では改善されているのだろうが、句の作られた戦後間もなくのころには、煤煙がひどかったろう。三十年ほど前に、私も四日市で体験したことがある。あれでは、降る雪も白銀色というわけにはいかない。そんな朝の道を、父親と娘が連れ立って出かけていく。テレビ・コマーシャルの一場面のようだが、汚れた雪では絵にもならない。二人とも、大いに仏頂面であるに違いない。やがて、父親と娘がそれぞれの方向に別れて行く「岐路」にさしかかったというわけだ。いつものように「じゃあね」と別れるだけのことだが、そこに着目して作者は、このなんでもない「岐路」にさまざまな人生のそれを読み取っている。年譜を見たら、父親は作者ではないとわかった。父娘は、単に通りすがりの人だった。この父親は煤煙を排出している工場の従業員かもしれず、娘もまた、そうかもしれぬ。だとすれば、父親は生涯この町で過ごすのだろうし、若い娘はいずれ出ていくのだろう。あるいはまた、父親のほうが汚い雪の降る町なんぞから早く出ていきたいという願望を持っていて、そろそろ決断の「岐路」に来ているのかもしれぬ。等々、揚句から浮かんでくる思いは、読者にとっていろいろだろう。が、いろいろな思いの底に流れるものは共通だ。すなわち、作者の静かなる憤怒の心である。人は、自分の力だけではどうにもならない理不尽を生きていく。煤煙まじりの雪が降ろうと、それはそれとして甘受せざるを得ない。どうにも動かせない劣悪な環境のなかで、とりあえず用意されている「岐路」は、むなしくもただ「じゃあね」と別れる程度のものでしかないのである。はやくから環境問題に取り組んだ作者の、これは哀感を越えた怒りの詩だ。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


December 21122000

 山国の虚空日わたる冬至かな

                           飯田蛇笏

至。太陽の高度がもっとも低く、一年中でいちばん昼の時間が短い。昔から「冬至冬なか冬はじめ」といって、暦的には冬の真ん中ではあるが、これから本格的に冬の寒さがはじまる。さて、「虚空」だ。何もない空。山国の冬の空は、いかにも「虚空」という感じがする。何もない空間、つまりは何ものにも侵食されていない空間。そんな感じを受けるのは、下界の自然に活気がなくなっているからだろう。全山ほとんど枯れ果てて、眠るがごとし(「山眠る」は冬の季語)。空は鏡ではないけれど、心理的には地上の活力を反映しているように思える。たとえば入道雲が湧き出る夏の空に活力を感じるのは、地上の季節の盛りを感じている人の心があるからである。揚句では「日」が見えているのだから、もちろん晴れているか、雲は出ていても薄曇り程度。その何もない空を、赤い日が低く静かにわたっていく。「ああ、冬至だな」という作者の感慨を写して、そのように空があり、そのように日のわたりがある。すなわち、作者の心象風景が、まさしく眼前に展開されているということである。蛇笏の句の多くが正しい骨格を持っている秘密は、このように地上の自然にまず自我を溶かし込み、そこからはじめて対象に向かって句を立ち上げる作句姿勢にありそうだ。「虚空」を詠む以前に、おのれ自身を「虚」にしている。いわば人事の異臭がないわけで、それだけ主体不明とも言えるが、主体不明こそ俳句詩形の他の詩形にはない面白さだから、蛇笏俳句は、その一つの頂上を極めた作品として心地よい。読者諸兄姉よ、きょうの空は、そして日は、あなたの心にどんなふうに写っていますか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)




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