今宵も忘年会。飲み過ぎない。喫い過ぎない。早めに引き上げる。どれか一つは守りたいものだが。




2000ソスN12ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 22122000

 父と娘に煤まじる雪朝の岐路

                           飴山 實

書に「尼崎にて二句」とあり、うちの一句。工業地帯だ。今では改善されているのだろうが、句の作られた戦後間もなくのころには、煤煙がひどかったろう。三十年ほど前に、私も四日市で体験したことがある。あれでは、降る雪も白銀色というわけにはいかない。そんな朝の道を、父親と娘が連れ立って出かけていく。テレビ・コマーシャルの一場面のようだが、汚れた雪では絵にもならない。二人とも、大いに仏頂面であるに違いない。やがて、父親と娘がそれぞれの方向に別れて行く「岐路」にさしかかったというわけだ。いつものように「じゃあね」と別れるだけのことだが、そこに着目して作者は、このなんでもない「岐路」にさまざまな人生のそれを読み取っている。年譜を見たら、父親は作者ではないとわかった。父娘は、単に通りすがりの人だった。この父親は煤煙を排出している工場の従業員かもしれず、娘もまた、そうかもしれぬ。だとすれば、父親は生涯この町で過ごすのだろうし、若い娘はいずれ出ていくのだろう。あるいはまた、父親のほうが汚い雪の降る町なんぞから早く出ていきたいという願望を持っていて、そろそろ決断の「岐路」に来ているのかもしれぬ。等々、揚句から浮かんでくる思いは、読者にとっていろいろだろう。が、いろいろな思いの底に流れるものは共通だ。すなわち、作者の静かなる憤怒の心である。人は、自分の力だけではどうにもならない理不尽を生きていく。煤煙まじりの雪が降ろうと、それはそれとして甘受せざるを得ない。どうにも動かせない劣悪な環境のなかで、とりあえず用意されている「岐路」は、むなしくもただ「じゃあね」と別れる程度のものでしかないのである。はやくから環境問題に取り組んだ作者の、これは哀感を越えた怒りの詩だ。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


December 21122000

 山国の虚空日わたる冬至かな

                           飯田蛇笏

至。太陽の高度がもっとも低く、一年中でいちばん昼の時間が短い。昔から「冬至冬なか冬はじめ」といって、暦的には冬の真ん中ではあるが、これから本格的に冬の寒さがはじまる。さて、「虚空」だ。何もない空。山国の冬の空は、いかにも「虚空」という感じがする。何もない空間、つまりは何ものにも侵食されていない空間。そんな感じを受けるのは、下界の自然に活気がなくなっているからだろう。全山ほとんど枯れ果てて、眠るがごとし(「山眠る」は冬の季語)。空は鏡ではないけれど、心理的には地上の活力を反映しているように思える。たとえば入道雲が湧き出る夏の空に活力を感じるのは、地上の季節の盛りを感じている人の心があるからである。揚句では「日」が見えているのだから、もちろん晴れているか、雲は出ていても薄曇り程度。その何もない空を、赤い日が低く静かにわたっていく。「ああ、冬至だな」という作者の感慨を写して、そのように空があり、そのように日のわたりがある。すなわち、作者の心象風景が、まさしく眼前に展開されているということである。蛇笏の句の多くが正しい骨格を持っている秘密は、このように地上の自然にまず自我を溶かし込み、そこからはじめて対象に向かって句を立ち上げる作句姿勢にありそうだ。「虚空」を詠む以前に、おのれ自身を「虚」にしている。いわば人事の異臭がないわけで、それだけ主体不明とも言えるが、主体不明こそ俳句詩形の他の詩形にはない面白さだから、蛇笏俳句は、その一つの頂上を極めた作品として心地よい。読者諸兄姉よ、きょうの空は、そして日は、あなたの心にどんなふうに写っていますか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 20122000

 聖樹にて星より高き鐘があり

                           二川のぼる

々「にて」という措辞に理屈っぽさが臭うのは惜しいが、言われてみれば、その通りだ。たしかにクリスマス・ツリーには、現実とは違う感覚の世界がある。句の「星」の上に「鐘」がある位置関係もそうだし、「星」よりも「鐘」やサンタクロースの人形のほうが大きかったりするのもそうだ。でも、作者はそういうことに今更のように気がついている。句を読んで、私も今更のように「なるほどね」と思った。気がついて、しかし作者は、この位置関係を現実のものとして感受している。そこが非凡。数々の星たちの上方に、巨大な鐘が浮かんでいて、それが高らかな音を発しているのだ。「聖樹」の小ささを越えて、はるかに壮大な宇宙を眺めている思い。何事につけ、このような目や耳を持つことができたら、人生は楽しくも豊かに感じられるでしょうね。ところでクリスマスツリーを見るたびに、私は酉の市の熊手のデコレーションを想起してしまう。あの熊手にも、現実の遠近感など無視した飾り付けがしてある。千両箱や金の俵よりも、ずっと「おかめ」の顔のほうが大きかったりする。洋の東西を問わず、現実の間尺に合わない関係を並列することで、希望や明るさを見いだしてきたということだろうか。ただ熊手には「現世利益」の願望がこめられていて、「聖樹」の神性とは大きく異なる。「聖樹」に近いのは門松であり、しかし、門松には何も吊るしたりはしない。このあたりが、文化文明の差なのだろう。そう考えると、ますます「聖樹」を見る目が変わってくる。『福音歳時記』(1993)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます