仕事先の事務所で、年賀状の試し刷りをやっていた。アセるまいとは思えども、やっぱり焦る気分に…。




2000年12月6日の句(前日までの二句を含む)

December 06122000

 女を見連れの男を見て師走

                           高浜虚子

ういう句をしれっと吐くところが、虚子爺さんのクエナいところ。歳末には、たしかに夫婦同士や恋人同士での外出が多い。人込みにもまれながら歩いていると、つい頻繁に「女を見連れの男を見て」しまうことになる。それで何をどう思うというわけではないが、このまなざしの根っこにある心理は何だろうか。なんだか、ほとんど本能的な視線の移動のようにも感じられる。この一瞬の「品定め」ないしは「値踏み」の正体を、考えてみるが、よくわからない。とにかく、師走の街にはこうした視線がチラチラと無数に飛び交っているわけで、掲句を敷衍拡大すると、別次元での滑稽にもあわただしい歳末の光景が浮き上がってくる。一読とぼけているようで、たやすい作りに見えるけれど、おそらく類句はないだろう。虚子の独創というか、虚子の感覚の鋭さがそのままに出ている句だ。師走の特性を街にとらえて、実にユニーク。ユニークにして、かつ平凡なる詠み振り。でも、作ってみろと言われたら、たいていの人は作れまい。少なくとも私には、逆立ちしても無理である。最大の讃め言葉としては、「偉大なる凡句」とでも言うしかないような気がする。掲句を知ってからというものは、ときおり雑踏のなかで思い出してしまい、そのたびに苦笑することとなった。ところで、女性にも逆に「男を見連れの女を見」る視線はあるのでしょうか。あるような気はしますけど……(清水哲男)


December 05122000

 金屏風何んとすばやくたたむこと

                           飯島晴子

風(びょうぶ)は、冬の季語。元来が、風よけのために使った生活用品だったからだ。昔の我が家にも、小屏風があった。隙間風から赤ん坊(私や弟)を守るために、両親が購入したらしい。それが今では、結婚披露宴で新郎新婦の背後にしつらえるなど、本来の目的とは別に、装飾品として生き続けている。六曲一双の「本屏風」。華やかな祝宴が終わって部屋を辞するときに、作者は何気なく主役のいた奥の正面あたりを振り返って見たのだろう。と、早くも片付けの係の人が「金屏風」をたたんでいた。それも、「何んとすばやく」という感じで……。せっかくの華やかな舞台が、あっという間に取り壊される図の無惨。などと作者は一言も言ってはいないのだけれど、私にはそう読める。人間のこしゃくな演出なんて、みんなこんなものなのだと。昨年、私が日本中央競馬会の雑誌に書いた雑文をお読みになって、突然いただいた私信でわかったことなのだが、作者は無類の競馬好きだった。「賭け事をするしないにかかわらず、人間は賭ける人と賭けない人と、男と女のように二手に分かれることは感じて居りました。そして俳句には上手だけれどもシンキクサイ俳句があることも気になって居りました」。「シンキクサイ俳句は、賭けない人がつくる……」。この件りについてはいろいろと考えさせられたが、当の飯島さん御自身が、係の人の手をわずらわすことなく、みずからの手で「金屏風」をたたむようにして亡くなってしまった。事の次第は、一切知らない。知らないけれど、シンキクサイ死に方ではなかっただろう。彼女の死によって、ひとしお私には、シンキクサクナイ掲句は忘れられない一句となったのである。『八頭』(1985)所収。(清水哲男)


December 04122000

 ふと羨し日記買ひ去る少年よ

                           松本たかし

店でか、文房具店でか。来年度の日記帳が、ずらりと山積みに並んでいる。あれこれ手に取って思案していると、隣りにいた少年がさっと一冊を買って帰っていった。自分のように、ぐずぐずと迷わない。「買ひ去る」は、そんな決断の早さを強調した表現だろう。「ふと羨(とも)し」は、即決できる少年の若さに対してであると同時に、その少年の日記帳に書きつけられるであろう若い夢や希望に対しての思いである。おそらく、ここには自分自身が少年だったころへの感傷があり、伴って往時茫々との感慨もある。「オレも、あんなふうなコドモだったな……」と、「少年よ」には、みずからの「少年時代」への呼びかけの念がこもっている。もとより、ほんの一瞬の思いにすぎないし、すぐに少年のことなどは忘れてしまう。だが、このように片々たる些事をスケッチして、読者にさまざまなイメージを想起させるのも俳句の得意芸だ。読者の一人として、私も私の「少年」に呼びかけたくなった。熱心に日記をつけたのは、小学六年から高校一年くらいまで。まさに少年時代だったわけだが、読み返してみると、内面的なことはほとんど書かれていない。半分くらいは、情けないことに野球と漫画と投稿関連の記述だ。だから、本文よりも、金銭出納欄のほうが面白い。鉛筆や消しゴムの値段をはじめバス代や映画代など、こまかく書いてある。なかに「コロッケ一個」などとある。買い食いだ。ああ、遠き日の我が愛しき「少年」よ。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)




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