伊豆長岡行き。仕事なり。ために湯島での「余白句会」は、泣く泣く欠席。次回は21世紀ということに。




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November 25112000

 妖村正二尺四寸雪催

                           稲島帚木

正(むらまさ)の作った刀を、実際に見たことはない。妖刀と言われるだけあって、チャンバラ映画や小説ではお馴染の刀だ。なぜ妖刀なのかは、『広辞苑』にゆずる。「(村正は)室町時代の刀工。美濃系と見られる。伝説多く、鎌倉の正宗に師事したが破門され、伊勢国桑名郡で刀剣を製作したという。徳川家康の祖父清康がこの刀で殺害され、また、嫡子信康がこの刀で介錯されたなどの伝えから、その作は徳川幕府の禁忌にあい、妖刀視された。同名が数人ある[広辞苑第五版]」。付け加えれば、家康も村正で手に傷を負ったという伝説がある。友人の父親が刀剣のコレクターで、学生時代に何振かを見せてもらった。「(刀身に)息を吹きかけるな」にはまいったが、正座してそろそろと抜き眼前に構えると、不思議な気持ちになる。殺人の意識が伴うせいか、息詰まるような緊張感がわいてくるのだ。そのうちに、刀身の輝きに吸い込まれるような感覚も生まれてくる。作者のように妖刀と承知して眺めれば、なおさらだろう。ましてや、表はどんよりとした雪催(ゆきもよい)で、何かドラマでもはじまりそうな雰囲気である。雪が来る前は、どういうわけか血が騒ぐ。さて「妖村正二尺四寸」、いかなる嵐を呼ぶか血を呼ぶか……。漢字だけの作意も、この気持ちにはぴったりだ。実感の強さが、よく出ている。ちなみに、囲碁にも「村正」という定石があって、少しでも対応を間違えると危ないところから名づけられたらしい。「俳句研究年鑑」(1995)所載。(清水哲男)


November 24112000

 霜の夜のミシンを溢れ落下傘

                           永井龍男

争末期の句。「大船某工場にて」とあり、この「某」は軍事機密ゆえの「某」である。作者は文藝春秋社の編集者だったから、取材のために訪れたのだろう。霜の降りた寒い夜、火の気のない工場では、「女工」たちが黙々と落下傘の縫製に追われている。ミシンの上に溢れた純白の布が目に染みるようであり、それだけに一層、霜夜の寒さが身をちぢこまらせる。「ミシンを溢れ」は、実に鮮やかにして的確な描写だ。一世を風靡した軍歌『空の神兵』で「藍より青き大空に大空に、たちまち開く百千の、真白き薔薇の花模様」と歌われた「落下傘」も、こんなふうに町の片隅の工場で、一つ一つ手縫いで作られていたわけである。ところで、往時の作者の身辺事情。「収入皆無の状態のまま、応召社員の給与、遺家族に対する手当支給などに追われた。空襲は頻度を増し、私の東京出勤もままならなかった」。そして、同じ時期に次の一句がある。「雑炊によみがへりたる指図あり」。文字通りの粗末な「雑炊」だが、やっと人心地のついた思いで食べていると、ふと会社からの「指図(さしず)」がよみがえってきた。すっかり、失念していたのだ。食べている場合じゃないな。そこで作者は、「指図」にしたがうべく、食べかけた雑炊の椀を置いて立ち上がるのである。この句は、戦中を離れて、現代にも十分に通じるだろう。なにしろ「企業戦士」というくらいだから……。『東門居句手帖・文壇句会今昔』(1972)所収。(清水哲男)


November 23112000

 戸隠の天へつらなる凍豆腐

                           佐川広治

豆腐(しみどうふ)は、関西あたりでは「高野(こうや)豆腐」と言う。その昔は、高野山で僧侶が作っていたからだ。我が故郷の山口県でも、そう呼んでいた。いまでは、戸隠(とがくし)のある長野県が産地として有名らしい。零下の気温が必要なので、寒い地方でないと作れない。戸隠では見たことがないけれど、花巻だったか遠野だったか、岩手を旅した折りに生産現場を見たことがある。小さな積木状の豆腐を何層もの竿にかけ、高く天日で乾かす様子は、なるほど「天へつらなる」感じがする。それに、戸隠といえば、天手力男命が投げた天岩戸が落ちた場所だと言い伝えのある土地だ。戸隠山は、天岩戸が変化してできた山なのだとも……。したがって、地元の人の「天」への意識も強いのだろう。ここで「戸隠」は単なる地名ではなく、そういうことも含んでいるのだと思う。「すぐそこに戸隠尖り秋の天」(篠辺楠葉)。高校時代、甘辛く煮た「凍豆腐」を、母はよく弁当のおかずに入れてくれた。欠点は汁がしみ出てご飯を侵食するところだが、まあ、食べ盛りだから、そんなに気にもならなかったけれど……。昼前の二時間目くらいまでで弁当は食べてしまい(授業中に食べたこともあったっけ。センセイ、ごめんなさい)、本当の昼食時には、もっぱら食堂で一杯18円だった「かけうどん」を食べていた。私が高校生だったのは、1953年(昭和28年)からの三年間です。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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