ぼつぼつと「喪中はがき」が…。例年のことながら寂しい。人は死ぬのだ。よい日曜日にしましょうね。




2000ソスN11ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 19112000

 断られたりお一人の鍋物は

                           岩下四十雀

んな経験はありませんか。私には、あります。独身のころ、にわかに鍋物が食べたくなって、小奇麗な店に入って注文したら、あっさり断られました。鍋物は一人でもテーブルを占拠するし時間もかかるので、経済効率、回転率からすれば「お一人」は最悪の客でしょう。だから「断られ」たわけですが、チョー頭に来ましたね。店内は込みあっているわけでもなく、むしろガラガラ状態。この野郎と思って、じゃあ「二人前だ」と言っても「困ります」と言うばかり……。「二度と来るか」と寒空の下に飛び出して、しかし鍋はあきらめきれず、そこらへんの居酒屋チェーンのカウンター席で「お一人」用の不味い鍋をつついた。あの古びて凸凹になったアルミ鍋を、インスタント焜炉に乗せて食べる侘びしさといったら、なかった。「二度と来るか」の店は、その後二年ほどして潰れたらしく、跡形もなくなったときには「ざまー見ろ」と思ったことでありました。まことに、食い物の恨みはおそろしい(笑)。掲句の作者は、こんなふうに愚痴を漏らしてはいない。漏らしていないだけ、余計にすごすごと引き下がる感じの哀れさと、しかし内心の「二度と来るか」の腹立ちとが伝わってくる。それに作者は独身(私の勝手な推定ですが)とはいっても、若者ではないだろう。さらにいっそう、切ないではないか。私の忘れていた屈辱を、鮮明に思い出さされた一句なので書いておきます。最近はこうした心理的トラブルを避けるために、やたらと空席に「予約席」の札を立てている店がある。浅知恵である。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


November 18112000

 数へられゐたるくつさめ三つまで

                           伊藤白潮

面から見ると珍しい言葉使いのように思えるが、「くつさめ」は現代表記では「くっさめ」だ。「嚔(くしゃみ・くさめ)」だ。まずは、嚔の定義から。「一回ないし数回痙攣状の吸息を行なった後、急に強い呼息を発すること。鼻粘膜の刺激または激しい光刺激によって起る反射運動で、中枢は延髄(えんずい)にある[広辞苑第五版]」。理屈はこうでも、嚔は不意にやっくるのだから、理屈なんぞを知っていても何の役にも立ちはしない(それにしても「嚔」とは、難しい漢字ですね)。不意にやってくるもの、意識の外からやってくる現象は、みんな不思議だ。でも、不思議だからといって不思議のままに放置しておけないのが、人の常だろう。そこで嚔にも、人は不思議な理屈をくっつけてきた。時代や地域差によって多少の違いはあるようだが、たとえば嚔一回だと「誰かが噂をしている」証拠という理屈。戦後すぐに流行した「リンゴの歌」にも「♪どなたが言ったか楽しい噂、軽いくしゃみも飛んででる……」と出てくる。二度の嚔は「誰かが悪口を言っている」となり、三度目は「惚れられて」いるのであり、四度目となれば「こりゃあ、本物の風邪のせいだ」となる。掲句もこのあたりの俗諺(ぞくげん)を踏まえており、周囲の人たちも三度目までは面白がって数えていたが、四度目からは数えなくなったと言っている。面白がってはいられなくなったのだ。本物の風邪と察したからである。作者ももちろんシラけたのだけれど、まわりの人たちもシラーッとなってしまった。軽い囃し立てが冗談の域をすっと越えた瞬間を、実に巧みに捉えた句だ。平仮名の多用は、鼻のぐずつき具合と照応している。白潮、絶好調なり。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 17112000

 綿虫や卓袱台捨てて一家去る

                           守屋明俊

綿虫が飛んでいるのだから、ちょうど今ごろの季節だろう。近所の家が引っ越していった。どんよりと曇った空の下に、ぽつんと卓袱台(ちゃぶだい)が捨てられている。卓袱台に限らないが、他家の所帯道具や生活用品は妙に生々しく感じられる。俎板(まないた)一枚にしても、そうだ。引っ越す側は新居では不要なので捨てていくだけの話だけれど、あからさまにゴミとして見せられる側は、なんだかとても痛ましいような気にさせられる。ああ、あの一家は、この卓袱台を囲んで暮らしていたのか。そう思うと、卓袱台を捨てて去った一家の行為が、冷たい仕打ちのようにすら思えてくる。ここで卓袱台は単なる物ではなく、一家の誰かれの姿と同じように生々しい存在なのだ。そんな人情の機微を弱々しく飛ぶ綿虫の様子につなげて、大袈裟に言えば、掲句は捨てられた卓袱台へのレクイエムのようにも写る。引っ越しはまた整理のチャンスでもあるから、引っ越しの多かった私の家でも、たくさんの物を捨ててきた。いちばん大きな物では、少年時代に、父が家そのものを捨てて去った。粗末なあばら屋だったし、田舎のことで後に住む人もいなかったので、そのまま置き去りにしたのだった。近隣の人にはさぞや生々しく見えたことだろうと、掲句に触れて思ったことである。十数年ぶりに訪れたときに、在の友人に尋ねたら「しばらく立っていたけれど、ある日突然、どおっと一気に崩れ落ちたよ」と話してくれた。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)




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