めったに行かない原宿へ。表通りの黄葉が楽しみだが、まだでしょうね。めったに会わない詩人と会う。




2000ソスN11ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 18112000

 数へられゐたるくつさめ三つまで

                           伊藤白潮

面から見ると珍しい言葉使いのように思えるが、「くつさめ」は現代表記では「くっさめ」だ。「嚔(くしゃみ・くさめ)」だ。まずは、嚔の定義から。「一回ないし数回痙攣状の吸息を行なった後、急に強い呼息を発すること。鼻粘膜の刺激または激しい光刺激によって起る反射運動で、中枢は延髄(えんずい)にある[広辞苑第五版]」。理屈はこうでも、嚔は不意にやっくるのだから、理屈なんぞを知っていても何の役にも立ちはしない(それにしても「嚔」とは、難しい漢字ですね)。不意にやってくるもの、意識の外からやってくる現象は、みんな不思議だ。でも、不思議だからといって不思議のままに放置しておけないのが、人の常だろう。そこで嚔にも、人は不思議な理屈をくっつけてきた。時代や地域差によって多少の違いはあるようだが、たとえば嚔一回だと「誰かが噂をしている」証拠という理屈。戦後すぐに流行した「リンゴの歌」にも「♪どなたが言ったか楽しい噂、軽いくしゃみも飛んででる……」と出てくる。二度の嚔は「誰かが悪口を言っている」となり、三度目は「惚れられて」いるのであり、四度目となれば「こりゃあ、本物の風邪のせいだ」となる。掲句もこのあたりの俗諺(ぞくげん)を踏まえており、周囲の人たちも三度目までは面白がって数えていたが、四度目からは数えなくなったと言っている。面白がってはいられなくなったのだ。本物の風邪と察したからである。作者ももちろんシラけたのだけれど、まわりの人たちもシラーッとなってしまった。軽い囃し立てが冗談の域をすっと越えた瞬間を、実に巧みに捉えた句だ。平仮名の多用は、鼻のぐずつき具合と照応している。白潮、絶好調なり。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 17112000

 綿虫や卓袱台捨てて一家去る

                           守屋明俊

綿虫が飛んでいるのだから、ちょうど今ごろの季節だろう。近所の家が引っ越していった。どんよりと曇った空の下に、ぽつんと卓袱台(ちゃぶだい)が捨てられている。卓袱台に限らないが、他家の所帯道具や生活用品は妙に生々しく感じられる。俎板(まないた)一枚にしても、そうだ。引っ越す側は新居では不要なので捨てていくだけの話だけれど、あからさまにゴミとして見せられる側は、なんだかとても痛ましいような気にさせられる。ああ、あの一家は、この卓袱台を囲んで暮らしていたのか。そう思うと、卓袱台を捨てて去った一家の行為が、冷たい仕打ちのようにすら思えてくる。ここで卓袱台は単なる物ではなく、一家の誰かれの姿と同じように生々しい存在なのだ。そんな人情の機微を弱々しく飛ぶ綿虫の様子につなげて、大袈裟に言えば、掲句は捨てられた卓袱台へのレクイエムのようにも写る。引っ越しはまた整理のチャンスでもあるから、引っ越しの多かった私の家でも、たくさんの物を捨ててきた。いちばん大きな物では、少年時代に、父が家そのものを捨てて去った。粗末なあばら屋だったし、田舎のことで後に住む人もいなかったので、そのまま置き去りにしたのだった。近隣の人にはさぞや生々しく見えたことだろうと、掲句に触れて思ったことである。十数年ぶりに訪れたときに、在の友人に尋ねたら「しばらく立っていたけれど、ある日突然、どおっと一気に崩れ落ちたよ」と話してくれた。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


November 16112000

 河豚食べて粗悪な鏡の前通る

                           横山房子

くわからないのだけれど、気になる句というのがある。掲句も、その一つだ。この場合に「粗悪な鏡」とはどんな鏡なのだろうかと、ずうっと気になっていた。出来損ないの鏡、姿を写してもよく写らないか、あるいは歪んで写る鏡だろうとは思うけれど、もうひとつ「河豚」との関係がうまく計れないのだった。で、ときどき句を思い出してはあれこれイメージしているうちに、ハッと思いついたのは、これは河豚の店に掛けられている鏡のことではないのかということだった。よく鏡面にジカに赤い筆文字で「祝開店、○○賛江」などと書かれている、アレである。作者は店の座敷で河豚料理を食べ、上機嫌での帰りしなに、ふっと出口あたりにあった「粗悪な鏡」に姿を写してしまった。そこに鏡があれば、自分の姿を確認するのは、なべて女性の本能に近い行為だろう。ちらりとではあるが、確認した自分の姿は歪んでいたのか、ぼおっとしか見えなかったのか、いずれにしても上機嫌とは裏腹なイメージでしかなかった。だから、思わずも発した言葉が「粗悪な鏡」め、だ。せっかくの河豚の御馳走による高級な満足感が、鏡のせいで一瞬のうちに萎えてしまった……。「これが人生ですね」などと、作者は何も読者に押しつけてはいないけれど、なんだか万事うまくいくわけがない人生の姿を、「粗悪」ではない鏡で一瞥してしまったかのような後味のする句ではある。作者は、故・横山白虹夫人。『背後』(1961)所収。(清水哲男)




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