テレビを見て作句する「テレビ俳人」が多いそうだ。演出された画面に挨拶してるわけで、これぞ滑稽。




2000ソスN11ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 02112000

 地の晩秋血を曳いて犬もどりくる

                           酒井弘司

嘩でもしたのだろうか。「血を曳いて」犬がもどってきた。蕭然(しょうぜん)と頭を垂れて……。このときに「血」と「地」という「ち」音の響きあいは、切なくも「晩秋」の季節感につながっている。日本語の微妙なところで、他の季節であれば、この音の打ち合わせは似合わない。「地の晩夏」「地の晩春」などに入れ替えてみれば、よくわかる。「ち」音が重なることで発している雰囲気は、身体や心のどこかがちりっと痛む感じである。ちりっと痛むのは、やはり晩秋の冷たい外気との触れ合いにこそ似合っている。「真冬」では寒すぎて、ちりっとは来ない。この句には含意があって、もどってきた犬は、実は作者自身でもあるだろう。心に傷を負って(「血を曳いて」)もどってきた自分自身の姿が、犬のそれに託されている。そしてさらに、作者は「もどってくる」という行動それ自体に、悲しみを覚えている。泣きながら、自分の住処にもどってくる。それはなにも、喧嘩に負けた犬や子供に特有の行動ではない。大人だって、泣きながら我が家にもどるのだ。そこには癒しや慰めの空間があるからだ。正確に言えば、もどったからといって受けた傷が根元から癒されるわけもないのだが、人は癒しや慰めを錯覚できる空間として住処や家庭を作ってきたのである。まことに悲しい知恵ではないか。その悲しい知恵のなかに、泣きながら人はもどる。もどるしかない。そのことへの深い悲しみ。泣き虫の人には、よくわかる句だろう。『朱夏集』(1978)所収。(清水哲男)


November 01112000

 猫のぼる十一月のさるすべり

                           青柳志解樹

月の特徴や風情を一息で射止める。まさに俳句の醍醐味であるが、作ろうとすると非常に難しい。陽暦での話だが、比較的イメージのわきやすい月もあって、例えば十二月や三月や五月。一月などは比較的簡単そうだが、最初の日々に新年という観念の波がかぶさり過ぎるので、一月全体を季節感として表現するとなるとなかなかに難しい。月半ば以降になると、もはや新年という観念は薄れがちになるからだ。ならば、十一月はどうだろうか。紅葉の月、落葉の月、行楽の月。そうした特長もいくらかはあるけれど、天候の変化にも乏しく、茫洋として掴みがたい。加えて、人事的にもさして動きのない月である。秋から冬へと季節が静かに動いていくだけなので、これといった決め手や殺し文句には欠けている。その決め手のなさを逆手に取ったのが、掲句だろう。この時期の「さるすべり」はもう、ほとんど裸木だ。そのつるつるした木を、猫がするするっと苦もなくのぼっていく。たぶん、小春日和の暖かい日なのだ。でも、ただそれだけ。全て世は事も無し……。これが「十一月」の風情ですねと、作者はおだやかに言い留めている。句のスタイルそのものが、そのまま「十一月」の掴みがたい風情としっくり溶け合っているように思える。「十一月」の句でよく知られているのは、中村草田男の「あたゝかき十一月もすみにけり」だ。この句もまた、茫洋の月を茫洋のままに詠んでいる。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 31102000

 翻訳の辞書に遊ばす木の実独楽

                           角谷昌子

集の後書きによれば、作者は文部省関連事業のボランティアとして海外派遣に携わってきたという。語学に堪能な人のようだ。さて、この単語をどう翻訳すべきか。思案しながら、たまたま机の上にあった「木の実独楽(このみごま)」を辞書の上でまわしてみる。思案はあくまでも翻訳語の上にあるのだから、上手にまわそうというのではなく、なんとなくまわしながら的語を「ひねり出そう」というわけだ。翻訳の仕事ではなくとも、人は思案に行き暮れたときに、ほとんど無意識のうちに何か別の行為にはしる。頭を掻きむしっている昔の文士の戯画があるが、あれなどもその一つだ。掻きむしったところで、よい知恵の浮かぶ保証があるわけでもないけれど、とにかく何かせずにはいられない。それがだんだん「癖」になってくる。私の場合には、行き詰まると煙草を吸う。とくに吸いたくもないのに、いつの間にか口に銜えている。煙が立ち上っていると、心が落ち着いてきて次に進めるようである。煙草に火がついている時間は、ほぼ三分間くらいか。この時間はいつも一定しているので、ちょっと思考の息を整えるのには、私にはちょうどよい時間幅ということだろう。このデンで言えば、作者の癖は机上で何かを手にしては転がすこと。あるいは、掌中で何かを玩ぶことのようだ。「木の実」の季節が過ぎると、何を掌中にするのだろうか。『奔流』(2000)所収。(清水哲男)




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