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November 01112000

 猫のぼる十一月のさるすべり

                           青柳志解樹

月の特徴や風情を一息で射止める。まさに俳句の醍醐味であるが、作ろうとすると非常に難しい。陽暦での話だが、比較的イメージのわきやすい月もあって、例えば十二月や三月や五月。一月などは比較的簡単そうだが、最初の日々に新年という観念の波がかぶさり過ぎるので、一月全体を季節感として表現するとなるとなかなかに難しい。月半ば以降になると、もはや新年という観念は薄れがちになるからだ。ならば、十一月はどうだろうか。紅葉の月、落葉の月、行楽の月。そうした特長もいくらかはあるけれど、天候の変化にも乏しく、茫洋として掴みがたい。加えて、人事的にもさして動きのない月である。秋から冬へと季節が静かに動いていくだけなので、これといった決め手や殺し文句には欠けている。その決め手のなさを逆手に取ったのが、掲句だろう。この時期の「さるすべり」はもう、ほとんど裸木だ。そのつるつるした木を、猫がするするっと苦もなくのぼっていく。たぶん、小春日和の暖かい日なのだ。でも、ただそれだけ。全て世は事も無し……。これが「十一月」の風情ですねと、作者はおだやかに言い留めている。句のスタイルそのものが、そのまま「十一月」の掴みがたい風情としっくり溶け合っているように思える。「十一月」の句でよく知られているのは、中村草田男の「あたゝかき十一月もすみにけり」だ。この句もまた、茫洋の月を茫洋のままに詠んでいる。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 02112000

 地の晩秋血を曳いて犬もどりくる

                           酒井弘司

嘩でもしたのだろうか。「血を曳いて」犬がもどってきた。蕭然(しょうぜん)と頭を垂れて……。このときに「血」と「地」という「ち」音の響きあいは、切なくも「晩秋」の季節感につながっている。日本語の微妙なところで、他の季節であれば、この音の打ち合わせは似合わない。「地の晩夏」「地の晩春」などに入れ替えてみれば、よくわかる。「ち」音が重なることで発している雰囲気は、身体や心のどこかがちりっと痛む感じである。ちりっと痛むのは、やはり晩秋の冷たい外気との触れ合いにこそ似合っている。「真冬」では寒すぎて、ちりっとは来ない。この句には含意があって、もどってきた犬は、実は作者自身でもあるだろう。心に傷を負って(「血を曳いて」)もどってきた自分自身の姿が、犬のそれに託されている。そしてさらに、作者は「もどってくる」という行動それ自体に、悲しみを覚えている。泣きながら、自分の住処にもどってくる。それはなにも、喧嘩に負けた犬や子供に特有の行動ではない。大人だって、泣きながら我が家にもどるのだ。そこには癒しや慰めの空間があるからだ。正確に言えば、もどったからといって受けた傷が根元から癒されるわけもないのだが、人は癒しや慰めを錯覚できる空間として住処や家庭を作ってきたのである。まことに悲しい知恵ではないか。その悲しい知恵のなかに、泣きながら人はもどる。もどるしかない。そのことへの深い悲しみ。泣き虫の人には、よくわかる句だろう。『朱夏集』(1978)所収。(清水哲男)


November 03112000

 黄落の我に減塩醤油かな

                           波多野爽波

嘲というよりも、戸惑いの苦笑に近い句。作句年齢は、還暦前後と推定される。比喩的に言えば、まさに人生の黄落(こうらく)期にさしかかってくる年齢での句だ。「我に」と言うのだから、「我」以外の家族は「減塩醤油」ではないわけだ。おそらくは、妻か嫁さんの特別な気遣いから出された「減塩醤油」なのである。その気遣いを、どう受け止めればよいのか。作者は「減塩醤油」の小瓶を「ほお」とひねくりまわしながら、複雑な心境にある。健康を気づかってくれるのはありがたいが、塩味を抜いた醤油の美味かろうはずもない。といって「普通の醤油でいいよ」と言えば角が立つ。さても、哀れなことになっちまったな。そういう句である。この句を読んで思い出したのは、学生時代に遊びに行くと、祖母が必ずこぼしていた言葉。「あの人たち(息子夫婦)は美味しいものを食べて、私には食べさせてくれない」。嫁さんに取材してみたら「お年寄りには毒ですさかいに……」。この行き違いが、掲句のモチーフに含まれているだろう。還暦を超えた私には、ようやく実感的に句意が響いてくる。で、ここからは私の願望と意見。年寄りには、好きなものを食わせよ。ついでに、禁酒禁煙などもとんでもない。小津映画でお馴染の俳優・中村伸郎さんは大の煙草好きだった。が、晩年は「健康」のためにと、医者からも周囲からも厳しく喫煙を禁じられた。当人が死ぬ苦しみで煙草を我慢しているうちに、本当に死んでしまった。通夜の席で誰言うとなく、みんなで煙草を吸って線香代わりに霊前に捧げたのだという。そんなアホな。中村さんにちらりと面識のあった私としては、大いに義憤を感じましたね。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


November 04112000

 萩の野は集つてゆき山となる

                           藤後左右

校の数学の時間に、「演繹(deduction)」「帰納(induction)」という考え方を習った。掲句は四方から「萩の野」が傾斜面をのぼっていき、それらが集まって「山」になったと言うのだから、典型的な帰納法による叙景である。かつての「ホトトギス」で、中村草田男と並び称された藤後左右(とうご・さゆう)の技ありの一句だ。当時の俳人たちを驚かせた一句だと、山本健吉が書いている。そう言われて見回してみると、俳句は演繹による作句法が圧倒的に多いことに気がつく。演繹法は前提をまず認めなければ話にならないので、前提の正しさを保証するために、たとえば有季定型なる約束事があったりする。なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ。人々が掲句に驚いたのは、彼がこの保証書を無意識にもせよ引き裂いているからだろう。たしかに、「萩」なる季語は存在する。しかし、ここで「萩」は他の季語とどのようにでも交換可能だ。「菊」でもよいし「百合」でもよろしい。すなわち、左右の「萩」は演繹法における絶対の前提ではなく、帰納法での特殊な前提の位置にある。具体例をあげるまでもなく、名句の季語は絶対であり動かせない。掲句には誰でもが「なるほど」と感心はするけれど、それ以上に感情移入できないのは、このように絶対の前提を欠いているからである。たしかに技はあるが、実がない。とまあ、せっかくの三連休中に屁理屈をこねまわして御迷惑かと思うが、俳句という文芸様式を考える上では、こんな感想も一興かと……。『熊襲ソング』所収。(清水哲男)


November 05112000

 鵙啼や竿にかけたるあらひ物

                           浦 舟

屋話。ここに載せる句に行き詰まると、ぱらぱらと拾い読みする本の一冊に、岩波文庫の柴田宵曲(1897-1966)『古句を観る』がある。元禄期無名俳人の句ばかりをコレクションして、その一つ一つに短い鑑賞文を添えた本だ。掲句も、集中の一句である。集められた句には、さすがに威風堂々あたりを払うような名品は見あたらないけれど、宵曲の道案内に従っていくと、有名でない句にも、よさのあることがよくわかる。どんな俳句でも面白いんだ、べつに威風堂々の風を吹かすばかりが能じゃない。これが、彼の江戸俳句を読む前提の心映えである。拾い読みしていると、こういう「気」が伝染してきて、正気に立ち戻れる。ついつい句に対して構える気持ちが、すうっと消えてしまう。そうだ楽しまなくては、と思い直せるのだ。掲句は、鋭く啼き立てる鵙(もず)と洗濯物の取りあわせ。明るい秋の日和を連想させるが、発想は平凡だ。「……という人があるかもしれぬ。けれどもそれはその後において、この種の趣向がしばしば繰返されたためで、浦舟の句が出来た時分には、まだそれほどではなかったのではないかという気がする」。この「気がする」はさりげない留めに見えて、実は古句を渉猟した者の自信が発した「さりげなさ」である。このような「気がする」が随所に出てきて、そのたびにハッとさせられる。そこで、もう一度句を眺めることになる。宵曲の「気がする」に誘われて掲句を眺め返すと、竿にかけられた「あらひ物」が生き生きと目に浮かぶようになるから不思議だ。鵙の声も、やかましい。句空間の張りが、ぐんぐん大きくなってくる。そうか、とくに古い書き物を読むときには心しなければならないなと、凡なる私としては自戒しきりだ。(清水哲男)


November 06112000

 色付や豆腐に落て薄紅葉

                           松尾芭蕉

だ色づいているかどうかも知らないでいた木の葉が、真っ白い豆腐に落ちてきたことで、薄紅葉になっていたことが知れたという意。「色付や」は「いろづくや」。この句を思い出すたびに、京都に行きたくなる。私にとっては、この季節の観光ポスターのコピーみたいな句だ。と言っても、とくだん芭蕉さんに失礼にはあたるまい。よく出来てますよ、旅行雑誌の写真なんかよりも、こうして言葉だけにしたほうが、よほど豆腐の美味さと風趣が際立つような……。南禅寺か嵐山周辺の湯豆腐屋の庭で食べていると、ちょうどこんな感じになる。本当に、薄紅葉が炭火にかけた鍋の上に舞い降りてくる。豆腐の白に映える薄紅葉は、天からの御馳走だ。仲秋を過ぎてからの京都の戸外は、肌寒い。だから、ほとんど日本酒の飲めない私ですら、必ず一本つけてしまう。これが、また豆腐の味わいをより深くする。よくぞ日本に生まれけり。愛国者ではない私が、インスタント愛国者になる数少ない場面である(笑)。もっとも、芭蕉が食べたのは湯豆腐ではないのかもしれない。だったとしたら、句の色合いはかなり変わってくる。寂しくも冷たい美しさ。いずれにしても、この句に美を感じるのは、代々この国に根を張って生きている人たちだけだろう。そんなことに思いをめぐらしていると、不思議な気持ちになってくる。はや、明日は「立冬」。湯豆腐の季節がやってきますね。(清水哲男)


November 07112000

 二重廻し着て蕎麦啜る己が家

                           石塚友二

重廻し(にじゅうまわし)は、釣り鐘形で袖のないマント。「ともに歩くも今日限り」の『金色夜叉』間貫一が熱海の海岸で着ていたのが、このマントだ。あるいは、川端康成『伊豆の踊子』の主人公が着ていたマントである。その二重廻しを着て、蕎麦を啜っているのだから、てっきり夜鳴き蕎麦の屋台での光景かと思いきや、下五でのどんでん返しが待っている。自分の家の室内での光景だったのだ。とにかく、寒い。火鉢も炬燵もない。辛抱たまらずに、出前の蕎麦をとったのだろう。昭和十年代の句だけれど、私にも似たような体験があり、よくわかる。二重廻しではないが、コートを着たうえに毛布まで引っ被って、寒さをやり過ごそうとしていたのは、二十代も後半だった。でも、掲句は自嘲句ではないだろう。誰にも同情なんて、求めてはいない。外出着を、家の中で着て震えている姿の滑稽を言っている。べつに凍え死ぬわけじゃなし、自己憐愍など思いの外で、みずからの情け無い姿を笑っているのである。いや、笑ってしまうしかないほどに、この夜は寒かったのだろう。若さとは、こういうものだ。火鉢や炬燵を買う金があったら、もっと別な使い道がある。我慢できるのも、若さの特権である。同じころの句に「人気なく火気なき家を俄破と出づ」があって、これまたあっけらかんと詠んでいる。いいなあ、若いってことは。昔は若かった私がいま、掲句に対して感じ入っている姿のほうが、なんだか侘びしいような……。『百萬』(1940)所収。(清水哲男)


November 08112000

 土佐脱藩以後いくつめの焼芋ぞ

                           高山れおな

佐脱藩というのだから、主人公は坂本龍馬だろう。脱藩したのは、二十八歳の春(文久二年・1862)。高知城下から四国山脈を越えての決死の脱藩行だった。この間、八日と言い伝えられる。以後、近江屋で暗殺されるまでの経緯は、ご案内の通り。彼の思想と行動への評価はここではおくとして、革命家と呼ぶにふさわしい生涯だったとは言える。その颯爽たる革命家に焼芋を食わせたのが、掲句のミソだ。食わせたうえに、あれから何本くらい食ったろうかと、しようもないことを考えさせている。天下国家とは、何も関係のない龍馬の姿。革命家であろうが誰であろうが、焼芋も食うしメシも食う。しようもないことも思案する。ただそれだけのことを突きだした句だけれど、これで皮肉は十分に利いている。龍馬に対する皮肉ではなく、龍馬ファンに対するそれであることは言うまでもあるまい。この句を読んで、桑原武夫の「中世フランス文学史」の講義の一端を思い出した。「小説家や詩人が、何を食ってたか、どんな女とねんごろだったか。そんなことはくだらんことと、君らは思うやろう。本当は、そこが大事なんやで……」。同じ時期に、鶴見俊輔から「エピソードは大事なんです」という話も聞いた。私たちは、つい固定観念で、あの人はああいう人と捉えてしまいがちだ。そうは問屋がおろさないのですよと、掲句はやんわり告げている。加えて、焼芋を頬張る龍馬の姿には哀感もある。この哀感があって、俳句になった。俳誌「豈」(33号・2000年10月刊)所載。(清水哲男)


November 09112000

 ランプ売るひとつランプを霧にともし

                           安住 敦

集の発行年から推して、敗戦後まもないころの作句だ。したがって、これらのランプはインテリア用のものではなくて、生活必需品である。あの当時は停電も多かったし、電気の来ていない家も少なくなかった。私の子供時代も、ランプ生活を強いられた。そんな事情から、こうして路上にランプを商う人がいたのだ。このときに、「ランプ」の繰り返しは単に抒情の演出を図ったものではないだろう。「ひとつランプを」ともしているのは、商品見本としてであり、また並べた商品を見せるための照明としてである。他人の生活のための道具を、自分の生活のための道具が照らしている。そのことを言っている。そして、秋の夜のつめたい霧だ。ともされたランプの光がぼおっとかすんでいる様子は、夢のように美しい。一瞬、世の中の荒廃や生活苦を忘れさせる夢の灯……。すうっと甘い感傷に流れていく作者の気持ちは、しかし「ランプ」を二度つぶやくことによって、また現実に戻ってくる。この夢幻と現実の響きあいは、けだし絶妙と言うべきか。作者は、短歌から出発した人だと聞く。「霧にともし」と字余りでおさえたところは、短歌の素養から来ているのかもしれぬ。短歌の下七七に来るはずの思いを、字を余らせることで内包させたとも読めるからである。理屈はともかく、従来の俳句とは異質の表現の確かさを感じさせられた。『古暦』(1954)所収。(清水哲男)


November 10112000

 よろこべばしきりに落つる木の実かな

                           富安風生

興吟だと思う。いいなあ、こういう句って。ほっとする。そんなわけはないのだが、作者が「よろこべば」、木の実も嬉しがって「しきりに」落ちてくれるのだ。双方で、はしゃぎあっている。幼いころの兄弟姉妹の関係には、誰にもこんな時間があっただろう。赤ちゃんがキャッキャッとよろこぶので、幼いお兄ちゃんやお姉ちゃんも嬉しくなって、いつまでも剽軽な振る舞いをつづける。作者は、そんな稚気の関係を赤ちゃんの側から詠んでおり、実にユニーク。無垢な心の明るさを失って久しい大人が、木の実相手に明るさを取り戻しているところに、いくばくかの哀感も伴う。発表当時には相当評判を呼んだ句らしく、「ホトトギス」を破門になったばかりの杉田久女がアタマに来て、「喜べど木の実もおちず鐘涼し」とヒステリックに反発した。「風生のバーカ」というわけだ。生真面目な久女の癇にさわったのだが、狭量に過ぎるのではないだろうか。俳句は、融通無碍。その日その日の出来心でも、いっこうに構わない。「オレがワタシが」の世界だけではない。そうした器の大きさが、魅力の源にある。バカみたいな表現でもゆったりと受け入れるところも、俳句の面白さである。しゃかりきになって「不朽の名作」とやらをひねり出そうとするアタマでっかちを、きっと俳句の神は苦笑して見ているのでしょう。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 11112000

 校庭の土俵均され秋の雲

                           塩谷康子

目(ほうきめ)も鮮やかに、土俵が均(なら)されている。縹渺(ひょうびょう)と雲を浮かべて、天はあくまでも高い。好天好日。作者は上機嫌だ。はじめは、これから相撲大会でもはじまるのかなと思ったが、休日の学校風景だろうと思い直した。そのほうが、句の味が濃くなる。たまさか子供らのいない校庭に入ると、不思議な緊張感にとらわれる。学校嫌いだった私だけの感じ方だろうが、なぜか授業中にひとり校庭にたたずんでいるような……。終業のベルが鳴ったら、みんなが昇降口からどっと出てくるような……。もうそんなことは起きないのだと思い直して、やっと安心する。そこで、作者と同じ上機嫌になる。そんな回路でしか、学校句は読めない。ところで、いまどきの学校に土俵はあるのだろうか。句集をひっくり返してみたら、作者は横浜市在住である。きっと近所の学校にあるのだろうけれど、かなり珍しいのではないか。昔は、四本柱の土俵がどこの学校にもあった。当然、男の子は体操の時間に相撲を取らされた。取るといってもねじり倒しっこみたいなもので、当人同士は真剣でも傍目には不格好だ。非力だが、嫌いじゃなかった。力いっぱい取り組んだ後は、負けても爽快感が残ったからだ。取っ組み合いの喧嘩でも同じで、身体と身体を直接ぶつけ揉み合う行為には、奇妙な恍惚感がある。なんだろうなあ、あれは……。中学を出て以来、ついぞそんな気持ちを味わえないままに、ここまで来てしまった。『素足』(1997)所収。(清水哲男)


November 12112000

 秋の暮水のやうなる酒二合

                           村上鬼城

酌。「二合」が、実によく利いている。「一合」では物足らないし「三合」では多すぎる。では「二合」が適量なのかと言われても、そう単純に割り切れることでもないのであり、なんとなく間(あいだ)を取って「二合」とするのが、酒飲みの諸般の事情との折り合いの付け方だろう。そのささやかな楽しみの「二合」が、今日はおいしくない。「水のやう」である。鬼城は裁判所(群馬・高崎)の代書人として働いていたから、何か職場で面白くないことでもあったのだろうか。気分が悪いと、酒もまずくなる。静かな秋の夕暮れに、不機嫌なままに酒を舐めている男の姿には、侘びしさが募る。ところが先日、図書館で借りてきた結城昌治の『俳句は下手でかまわない』(1989・朝日新聞社)を読んでいたら、こう書いてあった。「体に悪いから家族の方がお酒を水で薄めちゃったんじゃないかと思います。本人はそれに気がついている」。そうだろうか。だとしたら、まずいのは当たり前だ。ますますもって、侘びしすぎる。句の読み方にはいろいろあってしかるべきだけれど、ちょっと結城さんの読みには無理があるような気がした。「水のやうなる」とは、普段と同じ酒であるのに、今日だけは例外的にそのように感じられることを強調した表現だろう。当然「水のやうなる酒」にコクはないが、掲句には人生の苦さに照応した味わい深いコクがある。『鬼城句集』(1942)所収。(清水哲男)


November 13112000

 落葉降る天に木立はなけれども

                           辻貨物船

葉、しきり。といっても、作者は木立のなかを歩いているわけではない。ごく普通の道に、どこからか風に乗って次から次へと落葉が降ってくるのだ。さながら「天に木立」があるように……。詩人・辻征夫の面目躍如の美しい句である。作者のいる場所は寒そうだが、読者には暖かいものが流れ込んでくる。「なけれども」は「あるように」とも言えるけれど、やはり「なけれども」と口ごもったところで、句が生きた。なんだか、本当に「天に木立」があるような気がしてくるではないか。技巧など弄していないので、それだけ身近に詩人の魂の感じられる一句だ。ちょっと似たような句に、今井聖の「絶巓の宙に湧きくる木の葉かな」がある。「絶巓(ぜってん)」は、山の頂上のこと。切り立った山なのだろう。作者はそれを見上げていて、頂上に湧くように舞い上っている落葉を眺めている。落葉している木立は山の背後にあって、作者の位置からは見えていない。見えていると解してもよいが、見えていないほうが「湧きくる」の意外性が強まる。木立は「なけれども」、その存在は「木の葉」の様子から確認できるととったほうが面白い。切れ味のよい力感があって、素晴らしい出来栄えだ。両者の違いは、ともに木立の不在を言いながら、辻句はいわば「夢の木立」に接近し、今井句は「現実の木立」に近づいているところだ。相違は、詩人と俳人の物の見方の違いから来るのだろうか。井川博年編『貨物船句集』(2000)所収。(清水哲男)


November 14112000

 おでんやがよく出るテレビドラマかな

                           吉屋信子

らぶれた男がひとり静かに飲んでいたり、失恋した女が「元気だしなよ」と慰められていたり……。たしかに「おでんや」は、人生の哀感をさりげなく演出するには恰好の舞台だ。テレビドラマにとっては、俳句の季語のように便利に雰囲気を出せる場所なのだ。しかし、だからといって、お手軽な出しすぎはわずらわしいと作者は鼻白んでいる。さすがは、ドラマ作りに明け暮れている小説家である。目のつけ所が違う。自分だったら、ここで「おでんや」は出さないのになどと、いちいちそういうふうにテレビを見てしまうのだ。なんだか気の毒にも思えてくる視聴者だけれど、誰であれ職業で培った目は、ちょっと外しておくというわけにもいかない。刑事物を見る本物の刑事や、看護婦物を見る本物の看護婦なども、いろいろと気になって仕方がないでしょうね。かくいう私も、編集者物を見かけると、現実とのあまりの違いに笑いだしたくなってくる。本物の「おでんや」の大将だって、掲句のようなドラマを見たら、作者以上に鼻白むはずだ。大人が見るに耐えるテレビドラマが少ないのは、このあたりにも一因があるのだろう。季語の「おでん」をまぜておけば、一応は俳句らしくはなるのだけれど、鼻白む読者が多かったりする「俳句」と同じことである。ちなみに、作句は1960年(昭和35年)の三月。まだ、テレビのある家庭は少なかった。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)


November 15112000

 星崎の闇を見よとや啼く千鳥

                           松尾芭蕉

人・吉田一穂に、掲句を引用した一文「桃花村」(「俳句」1964年5月号)がある。以下、引用。「俳句は徳川期の過酷な政令の下で、思ひのまま昂ぶる感情を流露し得ない状況から、抑圧の吐け口として、隠秘に、心情を自然物に仮託した表現手段であつたと考へられなくもない。もともと文学とは、きかぬ気のものである。ボナパルトに剣があるなら儂にはペンがあるといふものである。天に告発する性(さが)がある。俳諧は地口、滑稽、軽みなどと風流の民の遊芸に発したとしても、かくれ・きりすたんの異曲で、なかなか風雅どころか、魔神なのである。芭蕉寂滅も荒野を駆けめぐつてのことである。このデモンが『星崎の闇を見よとや啼く千鳥』と存在の根元を問はせたのであらう。自然とのコレスポンダンスとしての人間は、もともと生物たる性と食と語りから脱離できない自然人である。特にわが国土の四季あざやかな風物は、候鳥季魚、山菜野果、直接自然を生産の場としてゐた限りでは、表現的に環境は季の運行と共に支配的表象となる。歳時記はその指針の暦であり、三才図会と等しい百科事典でもあつた」。つづけて詩人は「俳句は季語の規約形式の運用に外ならない」と書き、「生活環境としての自然喪失は、当然、現代感覚の対象たり得ないのみか、俳句の消滅を語るものといわねばならない。(中略)俳人は旧式に未練なく、季約などといふものを屁とも思はぬ現代詩人の混沌振りに参加して、新しい詩を書く方が活動的だ」と断じている。「川端(康成)なんて、どこがいいんだ。アイツは駄目だ」と口角泡を飛ばして語った姿そのままに、すこぶる歯切れがよい。この古くて新しい議論に、俳人諸氏はどう応えるのか。いや、私はどう応えようか。そのあたりが、まだまだ私は「千鳥足」なのだと思った。(清水哲男)


November 16112000

 河豚食べて粗悪な鏡の前通る

                           横山房子

くわからないのだけれど、気になる句というのがある。掲句も、その一つだ。この場合に「粗悪な鏡」とはどんな鏡なのだろうかと、ずうっと気になっていた。出来損ないの鏡、姿を写してもよく写らないか、あるいは歪んで写る鏡だろうとは思うけれど、もうひとつ「河豚」との関係がうまく計れないのだった。で、ときどき句を思い出してはあれこれイメージしているうちに、ハッと思いついたのは、これは河豚の店に掛けられている鏡のことではないのかということだった。よく鏡面にジカに赤い筆文字で「祝開店、○○賛江」などと書かれている、アレである。作者は店の座敷で河豚料理を食べ、上機嫌での帰りしなに、ふっと出口あたりにあった「粗悪な鏡」に姿を写してしまった。そこに鏡があれば、自分の姿を確認するのは、なべて女性の本能に近い行為だろう。ちらりとではあるが、確認した自分の姿は歪んでいたのか、ぼおっとしか見えなかったのか、いずれにしても上機嫌とは裏腹なイメージでしかなかった。だから、思わずも発した言葉が「粗悪な鏡」め、だ。せっかくの河豚の御馳走による高級な満足感が、鏡のせいで一瞬のうちに萎えてしまった……。「これが人生ですね」などと、作者は何も読者に押しつけてはいないけれど、なんだか万事うまくいくわけがない人生の姿を、「粗悪」ではない鏡で一瞥してしまったかのような後味のする句ではある。作者は、故・横山白虹夫人。『背後』(1961)所収。(清水哲男)


November 17112000

 綿虫や卓袱台捨てて一家去る

                           守屋明俊

綿虫が飛んでいるのだから、ちょうど今ごろの季節だろう。近所の家が引っ越していった。どんよりと曇った空の下に、ぽつんと卓袱台(ちゃぶだい)が捨てられている。卓袱台に限らないが、他家の所帯道具や生活用品は妙に生々しく感じられる。俎板(まないた)一枚にしても、そうだ。引っ越す側は新居では不要なので捨てていくだけの話だけれど、あからさまにゴミとして見せられる側は、なんだかとても痛ましいような気にさせられる。ああ、あの一家は、この卓袱台を囲んで暮らしていたのか。そう思うと、卓袱台を捨てて去った一家の行為が、冷たい仕打ちのようにすら思えてくる。ここで卓袱台は単なる物ではなく、一家の誰かれの姿と同じように生々しい存在なのだ。そんな人情の機微を弱々しく飛ぶ綿虫の様子につなげて、大袈裟に言えば、掲句は捨てられた卓袱台へのレクイエムのようにも写る。引っ越しはまた整理のチャンスでもあるから、引っ越しの多かった私の家でも、たくさんの物を捨ててきた。いちばん大きな物では、少年時代に、父が家そのものを捨てて去った。粗末なあばら屋だったし、田舎のことで後に住む人もいなかったので、そのまま置き去りにしたのだった。近隣の人にはさぞや生々しく見えたことだろうと、掲句に触れて思ったことである。十数年ぶりに訪れたときに、在の友人に尋ねたら「しばらく立っていたけれど、ある日突然、どおっと一気に崩れ落ちたよ」と話してくれた。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


November 18112000

 数へられゐたるくつさめ三つまで

                           伊藤白潮

面から見ると珍しい言葉使いのように思えるが、「くつさめ」は現代表記では「くっさめ」だ。「嚔(くしゃみ・くさめ)」だ。まずは、嚔の定義から。「一回ないし数回痙攣状の吸息を行なった後、急に強い呼息を発すること。鼻粘膜の刺激または激しい光刺激によって起る反射運動で、中枢は延髄(えんずい)にある[広辞苑第五版]」。理屈はこうでも、嚔は不意にやっくるのだから、理屈なんぞを知っていても何の役にも立ちはしない(それにしても「嚔」とは、難しい漢字ですね)。不意にやってくるもの、意識の外からやってくる現象は、みんな不思議だ。でも、不思議だからといって不思議のままに放置しておけないのが、人の常だろう。そこで嚔にも、人は不思議な理屈をくっつけてきた。時代や地域差によって多少の違いはあるようだが、たとえば嚔一回だと「誰かが噂をしている」証拠という理屈。戦後すぐに流行した「リンゴの歌」にも「♪どなたが言ったか楽しい噂、軽いくしゃみも飛んででる……」と出てくる。二度の嚔は「誰かが悪口を言っている」となり、三度目は「惚れられて」いるのであり、四度目となれば「こりゃあ、本物の風邪のせいだ」となる。掲句もこのあたりの俗諺(ぞくげん)を踏まえており、周囲の人たちも三度目までは面白がって数えていたが、四度目からは数えなくなったと言っている。面白がってはいられなくなったのだ。本物の風邪と察したからである。作者ももちろんシラけたのだけれど、まわりの人たちもシラーッとなってしまった。軽い囃し立てが冗談の域をすっと越えた瞬間を、実に巧みに捉えた句だ。平仮名の多用は、鼻のぐずつき具合と照応している。白潮、絶好調なり。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 19112000

 断られたりお一人の鍋物は

                           岩下四十雀

んな経験はありませんか。私には、あります。独身のころ、にわかに鍋物が食べたくなって、小奇麗な店に入って注文したら、あっさり断られました。鍋物は一人でもテーブルを占拠するし時間もかかるので、経済効率、回転率からすれば「お一人」は最悪の客でしょう。だから「断られ」たわけですが、チョー頭に来ましたね。店内は込みあっているわけでもなく、むしろガラガラ状態。この野郎と思って、じゃあ「二人前だ」と言っても「困ります」と言うばかり……。「二度と来るか」と寒空の下に飛び出して、しかし鍋はあきらめきれず、そこらへんの居酒屋チェーンのカウンター席で「お一人」用の不味い鍋をつついた。あの古びて凸凹になったアルミ鍋を、インスタント焜炉に乗せて食べる侘びしさといったら、なかった。「二度と来るか」の店は、その後二年ほどして潰れたらしく、跡形もなくなったときには「ざまー見ろ」と思ったことでありました。まことに、食い物の恨みはおそろしい(笑)。掲句の作者は、こんなふうに愚痴を漏らしてはいない。漏らしていないだけ、余計にすごすごと引き下がる感じの哀れさと、しかし内心の「二度と来るか」の腹立ちとが伝わってくる。それに作者は独身(私の勝手な推定ですが)とはいっても、若者ではないだろう。さらにいっそう、切ないではないか。私の忘れていた屈辱を、鮮明に思い出さされた一句なので書いておきます。最近はこうした心理的トラブルを避けるために、やたらと空席に「予約席」の札を立てている店がある。浅知恵である。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


November 20112000

 わだかまるものを投げ込む焚火かな

                           小倉涌史

とより「わだかまるもの」とは、精神的、心理的な「わだかまり」だ。それを「もの」に託して、えいやっと思い決め、火の中に「投げ込む」。遊びでの焚火は別にして、焚火で燃やす「もの」を思い決めるのには、けっこう決断力を要する。あらかじめ燃やすと決めておいたものはすんなりと燃やせるが、火が盛んになってくるうちに、もっと燃やしてもよいものがあるかもしれないと、そこらへんを探しはじめたりする。焚火は身辺整理の技術、すなわち捨てる技術の問題に関わってくるので、相応の決断を強いられる作業だ。もう二度と使わないかもしれない道具や、二度と読みそうもない雑誌や本の類があることはあるのだけれど、火に投じてしまえばおしまいだから、かなり逡巡躊躇することになる。そのことで一瞬、それこそ心に別種の「わだかまり」が生まれてしまう。だから、ここで作者が「わだかまるもの」と言っているのは、精神的心理的なそれであることに違いはないが、同時に燃やすべきか否かの「もの」それ自体への執着を振り捨てるかどうかということなのだ。前もって燃やすと決めておいた「もの」には、「わだかまるもの」など乗り移らない。この「もの」という言葉の重層性を感じて、はじめて掲句は理解できるのだと思う。余禄として書いておけば、作句時の小倉涌史は膵臓癌のために、余命いくばくもないと承知していた。このときに、作者がえいやっと火に投げ込んだ「もの」とは何だったのだろう。心の「わだかまり」は切ないので知りたくないけれど、火に投じられた「もの」については知りたいと思う。以前にも書いたが、彼は当ページの最初からの読者であり協力者であった。小倉さん、また焚火の季節がめぐってきましたよ。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


November 21112000

 着膨れて児に唱合はす三十路はや

                           木附沢麦青

う、こんなトシになったのか。ときどき、そう感じることがあり、愕然とすることもある。きっかけは、人さまざまだろう。作者の「児」は、まだ幼い。口もよくまわらぬままに、歌いはじめた。そこで父親である作者は、できるだけ子供の歌いぶりをそこねないようにしながら、「唱」を「合は」せている。「咲いた、咲いた」が「タイタ、タイタ」なら、やはり「タイタ、タイタ」と合わせるのだ。父と子の関係だけで言えば、何でもない日常の一齣でしかない。が、ここでふと作者が気づいたのは、寒さに「着膨れ(きぶくれ)て」いる自分の姿だった。そこに、それこそ愕然としている。若いころには、こんな寒さなんぞへっちゃらだったのに……。そういえばと思いが沈んで、すなわち「三十路はや」との感慨を得たわけだ。何を言ってるんだい、まだ若いじゃないか。三十路を過ぎた人たちなら、たいがいそう思うだろう。つられて、私も言いたくなる。が、冷静にこの年代に対すれば、現代の三十代は生活の激変する年代に当たっている。否応なく世の中と向き合わねばならないし、そのための対応処置の量たるや、未経験であるがゆえに大変なものがある。漠然とにもせよ、「着膨れ」の作者はそういうことにも思いがいたって、素直に「三十路はや」とつぶやいたのである。同時に、ここでこうして幼子につきあっている自分は、つい昨日まで想像もしていなかった自分だということもある。つい昨日までの若き日が、なんだか夢まぼろしのようにすら思えてくる……。その意味からしても「三十路はや」は、決して大げさな表現ではないだろう。角川俳句賞「陸奥の冬」(1966年度)より。(清水哲男)


November 22112000

 化けさうな傘かす寺のしぐれかな

                           与謝蕪村

り合いの寺を訪ねたのだろう。辞去しようとすると、折りからの「しぐれ」である。で、傘を借りて帰ることになったが、これがなんとも時代物で、夜中ともなれば「化けさうな」破れ傘だった。この傘一本から、読者は小さな荒れ寺を想起し、蕪村の苦笑を感得するのだ。相手が寺だから、なるほど「化けさうな」の比喩も利いている。「化けさうな傘」を仕方なくさして「しぐれ」のなかを戻る蕪村の姿には、滑稽味もある。言われてみると、たしかに傘には表情がありますね。私の場合、新品以外では、自分の傘に意識することはないけれど、たまに借りると、表情とか雰囲気の違いを意識させられる。女物は無論だが、男物でも、他人の傘にはちょっと緊張感が生まれる。さして歩いている間中、自分のどこかが普段の自分とは違っているような……。「不倶戴天」と言ったりする。傘も一つの立派な「天」なので、他人の天を安直に戴(いただ)いているように感じるからなのかもしれない。ところで「しぐれ(時雨)」の定義。初冬の長雨と誤用する人が案外多いので書いておくと、元来はさっと降ってさっと上がる雨を言った。夏の夕立のように、移動する雨のことだ。曽良が芭蕉の郷里・伊賀で詠んだ句に「なつかしや奈良の隣の一時雨」とあるが、この「一時雨(ひとしぐれ)」という感覚の雨が本意である。蕪村もきっと戻る途中で雨が止み、「化けさうな」傘をたたんでほっとしたにちがいない。(清水哲男)


November 23112000

 戸隠の天へつらなる凍豆腐

                           佐川広治

豆腐(しみどうふ)は、関西あたりでは「高野(こうや)豆腐」と言う。その昔は、高野山で僧侶が作っていたからだ。我が故郷の山口県でも、そう呼んでいた。いまでは、戸隠(とがくし)のある長野県が産地として有名らしい。零下の気温が必要なので、寒い地方でないと作れない。戸隠では見たことがないけれど、花巻だったか遠野だったか、岩手を旅した折りに生産現場を見たことがある。小さな積木状の豆腐を何層もの竿にかけ、高く天日で乾かす様子は、なるほど「天へつらなる」感じがする。それに、戸隠といえば、天手力男命が投げた天岩戸が落ちた場所だと言い伝えのある土地だ。戸隠山は、天岩戸が変化してできた山なのだとも……。したがって、地元の人の「天」への意識も強いのだろう。ここで「戸隠」は単なる地名ではなく、そういうことも含んでいるのだと思う。「すぐそこに戸隠尖り秋の天」(篠辺楠葉)。高校時代、甘辛く煮た「凍豆腐」を、母はよく弁当のおかずに入れてくれた。欠点は汁がしみ出てご飯を侵食するところだが、まあ、食べ盛りだから、そんなに気にもならなかったけれど……。昼前の二時間目くらいまでで弁当は食べてしまい(授業中に食べたこともあったっけ。センセイ、ごめんなさい)、本当の昼食時には、もっぱら食堂で一杯18円だった「かけうどん」を食べていた。私が高校生だったのは、1953年(昭和28年)からの三年間です。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 24112000

 霜の夜のミシンを溢れ落下傘

                           永井龍男

争末期の句。「大船某工場にて」とあり、この「某」は軍事機密ゆえの「某」である。作者は文藝春秋社の編集者だったから、取材のために訪れたのだろう。霜の降りた寒い夜、火の気のない工場では、「女工」たちが黙々と落下傘の縫製に追われている。ミシンの上に溢れた純白の布が目に染みるようであり、それだけに一層、霜夜の寒さが身をちぢこまらせる。「ミシンを溢れ」は、実に鮮やかにして的確な描写だ。一世を風靡した軍歌『空の神兵』で「藍より青き大空に大空に、たちまち開く百千の、真白き薔薇の花模様」と歌われた「落下傘」も、こんなふうに町の片隅の工場で、一つ一つ手縫いで作られていたわけである。ところで、往時の作者の身辺事情。「収入皆無の状態のまま、応召社員の給与、遺家族に対する手当支給などに追われた。空襲は頻度を増し、私の東京出勤もままならなかった」。そして、同じ時期に次の一句がある。「雑炊によみがへりたる指図あり」。文字通りの粗末な「雑炊」だが、やっと人心地のついた思いで食べていると、ふと会社からの「指図(さしず)」がよみがえってきた。すっかり、失念していたのだ。食べている場合じゃないな。そこで作者は、「指図」にしたがうべく、食べかけた雑炊の椀を置いて立ち上がるのである。この句は、戦中を離れて、現代にも十分に通じるだろう。なにしろ「企業戦士」というくらいだから……。『東門居句手帖・文壇句会今昔』(1972)所収。(清水哲男)


November 25112000

 妖村正二尺四寸雪催

                           稲島帚木

正(むらまさ)の作った刀を、実際に見たことはない。妖刀と言われるだけあって、チャンバラ映画や小説ではお馴染の刀だ。なぜ妖刀なのかは、『広辞苑』にゆずる。「(村正は)室町時代の刀工。美濃系と見られる。伝説多く、鎌倉の正宗に師事したが破門され、伊勢国桑名郡で刀剣を製作したという。徳川家康の祖父清康がこの刀で殺害され、また、嫡子信康がこの刀で介錯されたなどの伝えから、その作は徳川幕府の禁忌にあい、妖刀視された。同名が数人ある[広辞苑第五版]」。付け加えれば、家康も村正で手に傷を負ったという伝説がある。友人の父親が刀剣のコレクターで、学生時代に何振かを見せてもらった。「(刀身に)息を吹きかけるな」にはまいったが、正座してそろそろと抜き眼前に構えると、不思議な気持ちになる。殺人の意識が伴うせいか、息詰まるような緊張感がわいてくるのだ。そのうちに、刀身の輝きに吸い込まれるような感覚も生まれてくる。作者のように妖刀と承知して眺めれば、なおさらだろう。ましてや、表はどんよりとした雪催(ゆきもよい)で、何かドラマでもはじまりそうな雰囲気である。雪が来る前は、どういうわけか血が騒ぐ。さて「妖村正二尺四寸」、いかなる嵐を呼ぶか血を呼ぶか……。漢字だけの作意も、この気持ちにはぴったりだ。実感の強さが、よく出ている。ちなみに、囲碁にも「村正」という定石があって、少しでも対応を間違えると危ないところから名づけられたらしい。「俳句研究年鑑」(1995)所載。(清水哲男)


November 26112000

 黄落や或る悲しみの受話器置く

                           平畑静塔

落(こうらく)は、イチョウやケヤキなどの木の葉が黄色に染まって落ちること。対するに、「紅葉かつ散る」という長い秋の季語がある。こちらは、紅葉したままの木の葉が落ちることだ。「照紅葉且つ散る岩根みづきけり」(西島麦南)。掲句のポイントは「或る悲しみ」の「或る」だろう。「或る」と口ごもっているのだから、「悲しみ」の中身は、たとえば肉親や親しい人の訃報のように、作者の胸に直接ひびいたものではあるまい。受話器の向こうの人の「悲しみ」なのだ。それを、向こうの人は作者に訴えてきたのだと思う。内容は、聞くほどに切なくなるもので、同情はするのだが、さりとてどのようにも力にはなってあげられそうもないもどかしさ。折しも、窓外の黄落はしきりである。聞いているうちに、降り注ぐ黄色い光りのなかに立っているような哀切で抽象的な感覚に襲われ、その気分のままに受話器を置いた。置いてもなお、気持ちはしばらく現実に戻らない。ここで多分、作者は「ほおっ」と大きなため息をついただろう。黄葉であれ紅葉であれ、木の葉のしきりに散る様子は人を酔わせるところがある。「或る悲しみ」の「或る」は、そんな気分に照応していて、よく利いている。『新俳句歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 27112000

 団交の静寂だん炉のよく燃えて

                           鈴木精一郎

寂に「しじま」の振り仮名。戦後も間もなくの句である。寒い季節の「団交(団体交渉)」だ。「春闘」かもしれないが、春の季語に「春闘」はあるので、ここは冬のボーナス闘争と読んでおきたい。作者は山形在住の八十歳、このときは炭坑に勤めていた。敗戦後、この種の組合運動は全国に燎原の火のように広がったが、都会の大企業ならばともかく、土地っ子が地元の会社に就職しての「団交」は難しかったろう。相手が社長だ専務だといっても、子供のころから顔なじみのおじさんだったりしたからだ。なかには、親戚の人までがいたりする。なかなか「闘争」と叫んで、拳を振り上げる心境にはなれない。しかし、かといって何も言わなければ、出るものも出ないわけで、ここらあたりが組合幹部の辛いところであった。受けて立つ会社側にしても、事はほぼ似たようなもの。「団交」とはいいながら、しばしば気まずい沈黙のときが訪れる。手詰まり状態のなかで活気があるのは、燃え盛る「だん炉」の火のみだ。「よく燃え」ている「だん炉」の火の音までが、聞こえてくるような佳句である。句集のあとがきによれば、この炭坑山も1965年(昭和四十年)に閉山になったという。「みんな仲間だ、炭掘る仲間」と歌って団結していた三池炭鉱労働者のみなさんも、いまや散り散りに……。労働組合のありようも形骸化の一途をたどりつつあるようで、すっかり気が抜けてしまった。『青』(2000)所収。(清水哲男)


November 28112000

 石蕗の黄に十一月はしづかな月

                           後藤比奈夫

週末の旅の途次、沼津の友人の案内で「沼津御用邸記念公園」に立ち寄った。ここは明治天皇が孫のために作った別荘地だが、空襲で焼けてしまった(園内には古墳形の防空壕が残されている)。それが戦後も二十年ほど経ってから沼津市に無償返還され、いまの公園に仕立て上げられたものである。海浜の静かな公園だ。園内は折しも、そこここに植えられた黄色い石蕗(つわ・つわぶき)の花盛り。元来が、海岸や海に近い山などに自生するらしいが、私は旅館などの日当りのよくない庭の隅にひっそりと咲いている姿しか見たことがなかった。花の黄は鮮やかだけれど、キク科独特の暗緑色の葉の印象が強いために、どちらかといえば地味で暗いイメージしか持っていなかった。たとえば「石蕗咲くや葬りすませし気の弱り」(金尾梅の門)のように、である。だから、公園で行けども行けども石蕗の花ばかりの道を歩いているうちに、小春日和のせいもあったのだろうが、かなりイメージが変わってきた。落ち着いた明るさを天にさしあげるようにして咲く、味わい深い花だと思ったことである。そんな目で掲句を読むと、たしかに納得できる。「十一月」という「しづかな月」をイメージさせる花として、石蕗は確かな位置を占めているのだなと……。その「しづかな月」も、間もなく過ぎていく。やがて、石蕗も枯れてしまう。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 29112000

 短日や書体父より祖父に似る

                           廣瀬直人

ッとした。こういうことは、思ってもみなかった。たしかに「書体」だって、遺伝するだろう。身体の仕組みが似ているのだから、ちょっとした仕草や動作にも似ているところがあるのと同じことで、「書体」も似てくるはずである。そういうことを、掲句に触れた人はみな、ひるがえって我が身に引きつけて考える。その意味では、この句はすべての読者への挨拶のように機能している。私の場合、二十代くらいまでは父の書体に似ていた。良く言えば几帳面な文字だが、どこか神経質な感じのする「書体」だった。さっき大学時代のノートの小さな文字列を見てみて、まぎれもない父似だと感じた。ところが、三十代に入って文筆を業とするようになってからは、「書体」が激変することになる。貧乏ゆえ原稿用紙を買うのが惜しかったので、最初に関わった「徳間書店」で大量にもらった升目の大きい用紙を使いつづけたせいだと思う。大きな升目に小さな文字ではいかにも貧相なので、升目に合わせて大きく書くようになった。以来の私の文字は、母方の祖父の「書体」に似ているような気がする。彼の文字は、葉書だと五行ほどで一杯になるくらい大きかった。祖父の体格は「書体」にふさわしく堂々としていたが、私は華奢だ。しばしば、編集の人から「身体に似合わない字を書きますね」と言われた。「短日(たんじつ)」は「秋思」の延長のようにして、人にいろいろなことを思わせる。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


November 30112000

 薪をわるいもうと一人冬籠

                           正岡子規

いに倒れた子規を看病したのは、母親と妹の律(りつ)である。元来が男の仕事である薪割りも、病臥している子規にはできない。寒い戸外で、「いもうと一人」が割っている「音」が切ない感じで聞こえてくる。病床は暖かく「冬籠(ふゆごもり)」そのものだ。申し訳ないという思いと同時に、けなげな「いもうと」への情愛の念が滲み出た一句だ。平仮名の「いもうと」が、句にやわらかい効果を与えていて素晴らしい。ところで、この句だけを読むと、子規は「いもうと」に対して常にやさしい態度で接していたと思えるが、実はそうでもなかった。『病臥漫録』に、次の件りがある。「律は強情なり 人間に向って冷淡なり 特に男に向って shy なり 彼は到底配偶者として世に立つ能(あた)はざるなり しかもその事が原因となりて彼は終(つい)に兄の看病人となりをはれり (中略) 彼が再び嫁して再び戻りその配偶者として世に立つこと能はざるを証明せしは暗に兄の看病人となるべき運命を持ちしためにやあらん」。このとき、子規は三十五歳、律は三十二歳だった。いかな寝返りも打てぬ病人とはいえ、あまりにも手前勝手な暴言だと憤激するムキもあるだろう。しかしこの文章を読み、また掲句に戻ると、子規の「いもうと」という肉親に対する思いは、どちらも本当だったのだという気がする。すなわち肉親に対する情愛、愛憎の念は、誰にでもこのように揺れてあるのではないだろうか、と。(清水哲男)




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