今宵は東京ドームへ。文字通りのプラチナ・チケットだ。20世紀最後の饗(狂)宴を堪能してきます。




2000ソスN10ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 22102000

 天高く梯子は空をせがむなり

                           仁藤さくら

子は短い。地面に倒されて置いてある梯子は長く見えるが、いざ立て掛けてみると、こんなに短かったのかと思う。ましてや、天高しの候。立て掛けて見上げる梯子の先の空は、抜けるように青い空間だから、頼りないほどに短く見える。そこで、こうした思いに出くわす。せがまれてもどうにもならないけれど、なんだか梯子に申しわけないような、立て掛けた自分の責任のような……。梯子にかぎらず、およそ道具には、こういうところがある。使い道にしたがって、たとえば包丁であれば何でも切ることをせがみ、自動車であれば無限のスピードをせがむ。道具のように機能を特化されていない人間の、これは機能を特化された道具に対する幻想ではあるけれど、道具がいちばん道具らしい表情を見せるのは、せがむ瞬間なのだ。ああ、梯子は高いところに上るための道具なのだと、せがまれてみて再認識をすることになる。その意味からして、掲句はひとつの道具論としても光っている。梯子とはこういうものだと、一発で言い当てている。実は私は高所恐怖症なので、この句のここまではわかるのだが、ここから先に作者が上っていく姿などは想像したくない。立て掛けて、地面の上から梯子の先を見上げ、その先に広がる秋空が目に入ったところで止めている句なので、書く気になった。と言いつつ、ちょっと上りかけた作者の気配を感じてしまい、目まいがしそうなので、本日はこれにておしまい。『Amusiaの島』(2000)所収。(清水哲男)


October 21102000

 落葉のせ大仏をのせ大地かな

                           上野 泰

の鎌倉あたりでの写生句だろう。上野泰の持ち味の一つは、このように句景を大きく張るところにある。大きく張って、しかもこけおどしにはならない。読者を「なるほど」とうなずかせる客観性を、常にきちんと備えている。あくまでも大らかな世界であり、心弱いときにこういう句を読むと、大いに慰められる。小さな落葉と大きな仏の像との取り合わせは、下手をすると才走った小生意気な句にもなりかねないが、そうした臭みが抜けているのは、天性の才質から来るものなのだろう。しっかりした大地のごとき心映えのない私などには、真似しようにも真似のできない句境だ。いいなあ、こんなふうに世界を見られたら、感じられたらなあ。実に気持ちがいいだろうなあ。同じ句集に「鯛の上平目の上や船遊び」の句がある。掲句が水平的に大らかな広がりを見せているのに対して、この句は垂直的に大らかなそれを感じさせる。鯛と平目は浦島伝説の常識を踏まえた発想であることはすぐにわかるが、この発想に舟遊びの人がパッと至るところは、やはり天性の感覚だとしか考えられない。言われてみれば「なるほど」であり、しかし言われてみないと「なるほど」でないのが、本当の「なるほど」というものだ。泰句の「なるほど」の実例には事欠かないが、もう一句。「大空は色紙の如し渡り鳥」。具体的にして抽象的。世界をざっくりと力強く読み取る男振り。まいったね。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


October 20102000

 自負すこし野菊の畦に腰かけて

                           平岡千代子

者が「野菊の畦(あぜ)に腰かけて」いるのは、今である。が、ここには今にとどまらない時間が流れている。小さかった頃から、こうやって畦に腰かけては、いろいろな夢を描いてきた。それらの夢の実現には自負もあったし、今もある。野菊の畦は、そういう時間が流れてきた場所なのだ。野菊は昔から秋になると同じ姿でここに咲くから、少女時代の夢も自負も、ここに腰かければはっきりと思い出すことができる。思い返せば少女のころの夢も自負もが、とてつもなく大きいものだった。かなわぬ夢とも、無謀な望みとも思ってはいなかった。それが大人になって世間に馴染んでくるにつれ、夢は小さくなり、自負もためらい気味に「すこし」と感じるようになった。野菊は昔のままに咲き、私はもう昔の私ではない。しかし「すこし」にせよ、秘めたる夢と自負はあるのだ。作者はあらためて、自分で自分を励ましている。諦観を詠まずに、希望を歌っているところにうたれる。救われる。大人の健気とは、こういうものだろう。飛躍するようだけれど、実にカッコよい。平岡さんは、愛媛県北宇和郡在住。「私の家は遍路寺の近くにあります」と「あとがき」にある。素朴に野菊や山の花の咲く、日本の原風景が残っている土地なのだろう。ビルの谷間のちっぽけな公園のベンチに、いくら「腰かけて」みても、こういう句は生まれない。『橋』(2000)所収。(清水哲男)




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