キンモクセイが散りはじめました。木の下にはコンペイトウのような花びらが……。秋深しですね。




20001019句(前日までの二句を含む)

October 19102000

 秋風やカレー一鍋すぐに空

                           辻 桃子

やこしい句がつづいたので、スカッとサワヤカに。「空」には「から」の振り仮名。カレーライスは、こうでなくてはいけない。いつまでも、ぐちゃぐちゃと食べるものではない。福神漬かラッキョウを添えて(ベニショウガもいいな)、一気呵成に口に放り込む。食べた後の一杯の水の、これまた美味いこと。健啖の楽しさに充ちた爽やかな句だ。この句を思い出すと、つられてカレーが食べたくなってしまう。カレーは、子供が辛いものにも美味いものがあることを知る最初の食べ物だろう。なかには父親の晩酌相手の塩辛だったという剛の者もいるけれど、たいていはカレーだ。私も、そうだった。塩辛とは辛さが違い、唐辛子のそれとも違い、なんだか不思議な辛さだなと、子供心に思ったことである。ハウス・バーモントカレーもいいけれど、専門店のカレーはやはり唸らせる。ただし、私には激辛は駄目。いつだったか、タイに住んでいたことのある人と一緒に食べたことがあるが、一口でダウンした。その人は、この程度じゃ利かないねと澄ましていた。専門店もいいが、蕎麦屋系の店が出すとろみのある和風味のカレーも好きだ。ただ、そういう店ではよく、水の入ったコップに匙を漬けて出してくる。あれは、いったい何のマジナイなのだろう。あれだけは、ご免こうむりたい。『ひるがほ』(1986)所収。(清水哲男)


October 18102000

 山姫に日まぜに味な言ふまぐれ

                           加藤郁乎

たぞろ通草(あけび)の登場となった。「山姫」は通草の異称だ。なぜ異称なのか。それは、いまあなたが思ったとおりの連想からでしょう(笑)。この句は、たとえばセロファンなどの透明な二枚の紙にそれぞれ異なった情景を描き、その二枚を重ね、日に透かして見るとわかるという構造を持つ。一枚目の情景は、ほぼ掲句の字面どおり。もう一枚のそれは、通草が秋の夕日をあびて(夕日にまざって)味のよさそうな頃合いを見せているという図。キーワードとして「日まぜ」と「言ふ」が使われており「目まぜ(目配せ)」と「夕」とに掛けてあるので、これが二枚の絵を重ね合わせた句とわかる仕掛けだ。まず作者は、秋の夕暮れに生っている通草を見ている。食べごろだなと思っている。しかし、そのまんまを詠むのも野暮だというのが郁乎美学。そこで、ひねった。「通草」は「山姫」。ならばこいつを「姫」に見立てて、という発想だ。山出しの女が色街で磨かれ、一丁前に男に目配せなどしながら、味なことを言うようになった……。この絵を、通草の生る自然の情景に重ね合わせたわけである。そこで、両者は秋の日を透かして食べごろの「味」として合体した。作者は「野暮は言いたくないが、明和のころより深川の岡場所に流行した粋、意気の心を忘れて俳句全盛の時代でもあるまい」と言う。「十七が折りかけてみるさくらかな」。この句でも「俳句十七音」と「娘十七」が「粋」に掛けられている。粋と意気に感じて生きるのも、私などには息が切れそうだ。『粋座』(1991)所収。(清水哲男)


October 17102000

 牛乳屋ちらと睹し秋暁の閨正し

                           中村草田男

てと、まずは漢字の読み方から。「睹し」は「みし」で「秋暁」は「しゅうぎょう」、「閨」は「けい」と読む。「牛乳」は「ちち」と、これは作者が振り仮名をつけている。牛乳配達は、朝が早い。そろそろ寒さが身にしみはじめる秋の朝、自転車で配達する牛乳屋さんも大変だ。心なしか、夏の配達時よりもピッチが上っている。配り慣れた家々なので、手早く牛乳箱から空き瓶を取り出しては、荷台の新しい牛乳に黙々と交換していく。それでも、ちらとは「閨」に目をやり、その家に何事も起きていないことを確認しているようにも見える。秋の朝の澄んだ空気のなか、その家の「閨」はきちんとしており、「正し」い輪郭で朝を迎えている……。「秋暁」の市井の凛とした空気を伝えた句だ。さて、この「閨」であるが、本義は「門」だ。これに「圭」(瑞玉)を転がり込ませた文字だから、やんごとなきお方の家の「門」。転じて婦人の部屋の意ともなり、これは「閨房」「閨閥」などでお馴染だ。そして「睹」は「目」と「者」で、集めあわせることで、視線を一点に集中して見るの意味となる。となれば、この牛乳配達さん、ひょっとすると女性の寝所か夫婦の部屋に「ちらと」ではあるけれど、視線を集めているのかもしれない。ならば「ちち」と照応する。しかし、そこには何の動きも感じられず、清く「正し」く落ち着いている。生臭さの微塵もない「秋暁」の光景だ。つまり、これほどに難しい漢字を使ったところからして、作者の意識には、前者の解釈のなかに後者の色彩を「ちらと」混入したかったのだと読んだ。それにしても、こんなに辞書を引かされる句も、めったにあるものではない。疲れた。『萬緑』(1940)所収。(清水哲男)




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