「歴史は夜作られる。これは映画の広告ではありません」というCMが昔あった。昼間はニュースが薄い。




2000ソスN10ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 17102000

 牛乳屋ちらと睹し秋暁の閨正し

                           中村草田男

てと、まずは漢字の読み方から。「睹し」は「みし」で「秋暁」は「しゅうぎょう」、「閨」は「けい」と読む。「牛乳」は「ちち」と、これは作者が振り仮名をつけている。牛乳配達は、朝が早い。そろそろ寒さが身にしみはじめる秋の朝、自転車で配達する牛乳屋さんも大変だ。心なしか、夏の配達時よりもピッチが上っている。配り慣れた家々なので、手早く牛乳箱から空き瓶を取り出しては、荷台の新しい牛乳に黙々と交換していく。それでも、ちらとは「閨」に目をやり、その家に何事も起きていないことを確認しているようにも見える。秋の朝の澄んだ空気のなか、その家の「閨」はきちんとしており、「正し」い輪郭で朝を迎えている……。「秋暁」の市井の凛とした空気を伝えた句だ。さて、この「閨」であるが、本義は「門」だ。これに「圭」(瑞玉)を転がり込ませた文字だから、やんごとなきお方の家の「門」。転じて婦人の部屋の意ともなり、これは「閨房」「閨閥」などでお馴染だ。そして「睹」は「目」と「者」で、集めあわせることで、視線を一点に集中して見るの意味となる。となれば、この牛乳配達さん、ひょっとすると女性の寝所か夫婦の部屋に「ちらと」ではあるけれど、視線を集めているのかもしれない。ならば「ちち」と照応する。しかし、そこには何の動きも感じられず、清く「正し」く落ち着いている。生臭さの微塵もない「秋暁」の光景だ。つまり、これほどに難しい漢字を使ったところからして、作者の意識には、前者の解釈のなかに後者の色彩を「ちらと」混入したかったのだと読んだ。それにしても、こんなに辞書を引かされる句も、めったにあるものではない。疲れた。『萬緑』(1940)所収。(清水哲男)


October 16102000

 赤とんぼじっとしたまま明日どうする

                           渥美 清

木露風の童謡「赤とんぼ」を思い出す。三番の結び。「……、とまっているよ、竿の先」。掲句の作者も見ているように、よく赤とんぼ(だけではないけれど)は、秋の日に羽を光らせて「じっとしたまま」でいることがある。休息しているのだろうか。が、鳥のように羽をたたまずにピーンと張ったままなので、緊張して何か思案でもしいるような姿に写る。露風の詩はここまでで止めている(この詩が、露風十代の俳句を下敷きにしていることは以前に書いた)が、掲句はもう一歩踏みだしている。お前、明日はどうするんだい。そう言ってはナンだが、何かアテでもあるのかい。この優しい呼びかけは、もとより自身への呼びかけである。お互いに、風に吹かれて流れていく身なのだからさ。と、赤とんぼを相棒扱いにして呼びかけたところに、露風とはまた違う生活感のある人間臭い抒情味が出た。作者は、ご存知松竹映画「『男はつらいよ』シリーズ」で人気のあった寅さんだ。いや、寅さんを演じた役者だ。渥美清は、俳号を「風天」と称していた。「フーテンの寅」に発している。掲句は朝日新聞社発行の雑誌「アエラ」に縁のある人々の「アエラ句会」で披露された45句のうちの一句。熱心で、句会には皆勤に近かったと、亡くなった後の「アエラ」に出ている。このことを知ると、どうしても「寅さん」が詠んだ句だと映画に重ね合わせて読んでしまう。止むを得ないところだが、しかし、そういうことを離れて句は素晴らしい。「どうする」の口語調が、とりわけて利いている。この秋の赤とんぼの季節も、そろそろおしまいだ。「明日どうする」。どうしようか。「アエラ」(1996年8月19日号)所載。(清水哲男)


October 15102000

 身の上や月にうつぶく影法師

                           茨木理兵衛

谷川伸(『一本刀土俵入』などで知られる劇作家・小説家)の随筆で知った句。句景からして、落魄の人生を詠んだ句であろうことは、容易にうかがえる。月を仰がず、地べたを見ている。そこには、己の影法師が寂しく「うつぶ」いている。長谷川は「俳句とその成る事情が小説に企て及ばないものがある」と言い、例証にこの句をあげている。理兵衛は、江戸期寛政の人。伊勢の津城主藤堂家の領地に起こった寛政一揆鎮圧の責任者で、当然、農民たちの恨みをかった。「伐つてとれ竹八月に木六月、茨の首は今が切りどき」という落首も出たほど。結局は鎮圧に失敗し、帰宿謹慎を命じられた理兵衛は腹を切ろうとするが、「死んで何になる。時機を待ち功を立て罪を償うのが家臣の道だ」と説く人があり、屈して生きのびた。浪々十年。旧知三百石で召還されたが、流転の十年の傷は癒えず懊悩の後半生を送ったという。そんな「生きたる残骸」が作った句だと長谷川は書き、「戯曲にかいても小説にかいても、『身の上や』の句から滲みでる哀傷の人生を表現するほどのものを企て及ばない」と書いている。その通りだろう。作者に俳句の素養がどの程度あったのかは知らないが、私のカンでは素人同然だったと思う。勉強した人なら、いきなり「身の上や」とは恐くて出られまい。芝居っ気がありすぎて、初手から句品を落とす危険性があるからだ。それを素人だから、何の衒いもなく素直に「身の上や」と出た。その素直が句全体に染みとおり、後世に残った。『長谷川伸全集・第十一巻』(1972)所載。(清水哲男)




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