26年前の今日、ミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄引退(1974)。若い選手が現役時代を知らないわけだ。




2000ソスN10ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 14102000

 露寒の刑務所黒く夜明けたり

                           岡本 眸

こから、すべての物語がはじまる。ドラマがが動きはじめそうな予感がする。掲句は、いろいろなことを読者に想像させる。フランスのフィルム・ノワール(暗黒街を扱う映画)だとか、邦画では赤木圭一郎『抜き打ちの竜』シリーズなど、一連の都会的な悪の世界を娯楽的に描いた映画のファンであった私は、そんな印象を受けたく(!)なる。が、おそらく作者には、そうした芝居っ気はないのだろう。あったとすれば、季語の「露寒」が抒情的に過ぎるからだ。写生句だろうか、想像句だろうか。わからないが、世間を隔てる高くて長い塀の向こうの黒い建物を句の中心に据えて、秋の寒さを言ったところは、お見事と言うしかない。夜明けだから、作者は起きたばかりだ。まだ、暖をとることはしていない。そして刑務所には、いつだって暖などはない。「露寒」という同じ環境にはあるのだけれど、こちらには望めば暖かい時間は得られるわけだが、あちらには望んで得られる環境はないのである。と言って、ことさらに「おかわいそうに」ということではなく、望んで得られるかどうかの落差に、作者は「露寒」をより切なく感じたということだろう。句には無関係な話だが、塀のあちらに行ってきた友人の話では、寒暖への関心はむしろ二の次で、量刑の多寡による人間関係の難しさがコタえたと言っていた。政治犯であった彼の独房の周辺には、数人の死刑囚が収監されていた。「必ず生きて出られるオレは、その思いだけでも暖かかった」と、これは私の脚色だけれど、向こう側でもこちら側でも、人間関係の寒さがいちばん寒いのである。『朝』(1971)所収。(清水哲男)


October 13102000

 影踏みは男女の遊び神無月

                           坪内稔典

ッと句から平仮名を抜いて、漢字だけを集めてみる。すると「影踏男女遊神無月」と、なにやら意味あり気な「漢詩」の一行ができあがる(笑)。「影ハ男ヲ踏ミ、女ハ神ニ遊ブ、ムゲツケナシ(「残忍なことだ」の意)」と。もちろん、これは私の悪い冗談である。稔典さんよ、許してつかぁさいね。でも、漢字は表意文字だからして、漢字の多い句に出会うと、観賞が漢字に引きずられてしまうことは、よくある。掲句はきちんと書いてあるからそういうことは起きないが、初心の実作者はよほど注意をしないと、とんでもない解釈をされることもあるので、要注意だろう。閑話休題。この句の面白さは、なんといっても「影踏み」を「男女の遊び」だと独断したところにある。普通は、男女に無関係の子供の遊びだ。誰も「男女の遊び」だとは思ってもみないが、こうして独断することで見えてくるものはある。何かと男女交際に口うるさい神様は、会議で出雲にお出かけだ。その隙をねらって「男女」が遊んでいるわけだが、思いきり遊べばよいものを、なんとお互いの影を踏みあうことくらいしかできない哀れさよ。「影踏み」なんて日のあるうちにするもので、しかも「神無月」の日照時間は短いのである。お楽しみはこれからなのに、なんて遊びにかまけているのか。作者はべつに警句を吐いたのではない。ただ、庶民の遊びの貧しさをからかい、そこにまた庶民のつつましさを見て、苦笑とともに共感を寄せている。このときに庶民とは、まずもって作者自身のことなのだ。だから、この句にはナンセンスの妙味もあるけれど、同時に苦くて寂しいユーモアが感じられる。「影踏み」か……。最後に遊んだのは、いつ誰とだったか。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)


October 12102000

 母追うて走る子供の手に通草

                           橋本鶏二

々をこねて、叱られたのだろう。「そんな悪い子は、もう知りません」と、母親はどんどん先に歩いていく。すると、先ほどの駄々はどこへやら、泣きながら必死に母を追うことになった。誰にでも、子供のころに一度や二度は覚えがあるだろう。作者にも覚えがあって、微笑しながら追いかけている子供を見やっている。そしてふと、子供の手にしっかりと通草(あけび)が握られていることに気がついた。大人の必死であれば、そんなものは捨ててしまって走るところだ。子供にしてみれば、母親も大事だが、食べたい通草も大事。やっぱり、子供は子供なんだ。可愛いもんだ。と、そんな含みも多少はあるのだろうが、もう少し掲句は深いと思う。子供の持つ通草は、母親が獲ってくれたものだとすれば、子供の手にあるのは母親の「慈愛」がもたらしたものだ。子供は母の「慈愛」を手放さずに、母を追いかけているわけだ。どうして、これが投げ捨てられようか。と、実際の子供の意識はいざ知らず、作者はそこに注目したのである。いい子だ。早くお母さんに追いつけよと、心のなかで励ましている。すなわち掲句は、何気ない日常の光景に取材した「母子讃歌」であった。最近、読者のSさんから、この秋の通草は実入りが悪いとメールをいただいた。失礼ながら、本稿を返信の代わりとさせてください。それにしても、もう何年も通草を口にしていない。売ってはいるが、買いたくない。通草は、山で獲るものサ。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)




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