唱歌で「ちんちろちんちろちんちろりん」は松虫。では「がちゃがちゃがちゃがちゃ」は何でしょう。




2000ソスN9ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1892000

 刈田ですわたくしたちの父たちです

                           小川双々子

を刈り取ったあとの田圃(たんぼ)、整然と切り株が並んでいる。散髪したての頭のように、さっぱりとして見える。農村で暮らした子供のころの私は、さあ、今年もここで野球ができるぞと勇み立った。勇み立って、たしかに盛んに野球をやったけれど、最初はなんだか足の裏が痛いような感じも覚えたものだ。刈田とはいえ、田圃が決して遊び場ではないことを知っていたからである。農家の生命源であることくらいは、農家の子なら誰にでもわかっていた。そんなわけで後年、掲句に接して、あっと思った。足の裏が痛かったのは「わたくしたちの父たち」を理不尽にも踏んづけていたからなのだ、親不孝だったのだと。田圃は農家の生命源というよりも、人間の生命そのものであったのだと。稲作という労苦の果ての形骸なのではなく、依然として刈田では「わたくしたちの父たち」の労苦が継続している場なのだと……。が、刈田で野球に興じていると、いつしか最初の痛みなど忘れてしまう。たとえ人の生命を踏んづけている認識があったとしても、同じことだったろう。「遊び」一般とは、そういうものだ。それはそれで、仕方がない。恐いのは、興じているうちに、掲句のような視点(考え)を理解できなくなることだと思う。「稔るほどに頭(こうべ)を垂るる稲穂かな」などと説教めかして言われないと、気がつかなくなることだろう。敬虔の念は、説教されて生まれてくるものではない。……と、しかし、これもまた私流の「説教」かしらん(苦笑)。作者はキリスト者。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


September 1792000

 栗飯に間に合はざりし栗一つ

                           矢島渚男

ヤリ。語意の二重性から、ぽろりと滑稽味が転がり出てくる句。普通に読めば、栗飯(くりめし)に炊き込むには、虫食いか何かで適当でない(間に合わない)栗が、ぽつねんと一つ寂しく残されてあるということだ。おそらく、作者の発想はそこから出ているのだろう。が、栗の役立たずを言うときに「間に合はざりし」と、故意に「時間に間に合わない」とも読める言葉を使用することで、栗の様子がかなり変化した。栗飯の支度に間に合うよう一所懸命に走ってきたのに、「遅かりし、ユラノスケ……」と言われてしまった(笑)。きっと「サルカニ合戦」の栗のように、口を「への字」一文字に曲げているのだ。そんな隠し味が仕込まれている。そうすると、眼前の「栗一つ」が、健気にも可愛いくも見え、いっそう哀れにも見えてくる。存在感が拡大されている。私はあまり擬人化が好きではないが、この程度の諧謔的な範囲での使用ならば許容できる。栗といえば、同じ作者に「栗に栗虫人間に人間虫」がある。こちらは、なかなかにキツい。身にコタえる。ああ、「クリゴハン」が食べたくなってきた、作るのは面倒だけど。吉祥寺「近鉄」の地下で売ってるのは、知ってるけど。商品の栗飯は美味いといえば美味いけど、まったく失敗の味がしないので、好きじゃない。一般的な「正義」の味でしかない。『梟のうた』(1995)所収。(清水哲男)


September 1692000

 仲よしの女二人の月見かな

                           波多野爽波

性の読者には、案外難解に写るかもしれない。詠まれている情景ではなく、なぜこんな句を詠むのかという作者の心持ちが……。男同士の「仲よし」だと、こんな具合の句にはならないだろう。ここで爽波は、「仲よしの女二人」の姿に、単に微笑を浮かべているのではない。月見の二人は、作者の家族である姉妹か母娘か。いずれにしても、血の通った女同士だと読める。他人同士と読めなくもないが、そうすると、その場に居合わせている作者との関係に無理が生じる。自宅の庭先での「月見」とみるのが自然だ。作者は二人から少し離れた位置にあり、もちろん微笑はしているが、他方でかすかな疎外感も覚えている。作者は、女たちの「仲よし」ぶりに入っていけない。べつに入りたいわけじゃないし、無視されているのでもないけれど、どこかで「月見」の場が彼女たちに占拠されているような、そんな不思議な気分なのだ。だから、自分もその場に存在するのに、あえて「二人の月見」と詠んだわけである。我が家は私と女三人の家族だから、こういう感じは日常茶飯に起きる。毎度のこと。「つまるところ、女同士は血縁しか信じない」と言った女性(誰だったかは失念)の言葉を、たまに思い出す。「仲よし」の構造が、どうも男とは違うようだ。その意味から言えば、武者小路実篤の「君は君、僕は僕、されど仲よき」なんて言いようは、まさに男ならではの発想であって、これまた女性には、なかなかわからない言葉ではないかと愚考する次第。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)




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