三鷹市敬老のつどい。高杉ゆりショー、東京コミックショー。こういうの好きだけど77歳以上だって。




2000ソスN9ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1592000

 老人の日喪服作らむと妻が言へり

                           草間時彦

じめは「としよりの日」だった。1951年(昭和26年制定)。それが1964年(昭和39年)に「老人の日」と変わり、その二年後には現在の「敬老の日」となる。かくして戦後の「としより」は、国家から三段階で祭り上げられてきたわけだ、言葉の上だけで……。掲句は、たった二度しかなかった珍重すべき「老人の日」に詠まれている。「老人の日」と聞いて抽象的に「敬老」を思う人もいるだろうが、多くの人があらためて思うのは、身近にいる老人のことだろう。老人を自覚している人はもちろん、そうでない人も「老人」につづけて連想するのは「死」だ。今度の冬が越えられるか。そういうことを、誰もがちらりと思う。で、いざというときに必要なのは「喪服」であり、そのことを妻がずばりと切り出したことに、作者は驚いている。身内の葬儀ともなれば、ちゃんとした喪服が必要なことくらい作者にもわかってはいるのだけれど、まだまだ時間的な余裕があると思いたいし、なかなか作る気にはなれないでいた。その優柔不断を、正面から突かれた。国家の押しつけた「老人の日」にも、こんな実効性があった。喪服は、多くの夫婦がおそろい(ペア・ルック)で作る最初にして最後の衣服だ。そう思うと、可笑しくもあり物悲しくもある。『淡酒』(1971)所収。(清水哲男)


September 1492000

 ローソンに秋風と入る測量士

                           松永典子

量士もそうだが、警官や看護婦や運転士や客室乗務員など、職場で作業着(制服)を着用して働く職業は多い。着用していると、機能的に仕事がしやすいという利点や、仕事中であることのサインを服自体が発するという利便性があり、権威に結びつくこともあるが、元来はそういう種類の衣服だ。ただ、作業着着用の人の職業が何であっても、共通しているのは、まったく日常的な生活臭を感じさせない点だ。職業に集中したデザインの服は、職業以外の何かを語ることはない。その意味で、着用している人は極度に抽象化された存在となっている。ポルノで「制服モの」に人気があるのは、抽象化された人間の具体を暴くための装置として、制服が位置づけられているからである。掲句は、抽象的な職業人の一人である「測量士」を「ローソン」に入らせたことで、瞬間的にふっと彼の生活臭を垣間見せている。弁当でも求めに入ったのだろう。この測量士の入るところが「ローソン」ではなく、たとえば事務所や公共的な建物だったら、このような生活臭は感じられない。生活のための商品をあれこれ売っている「ローソン」だからこそ、ふっと彼の生活臭がにおってくるのだ。爽やかな「秋風」に運ばれて……。作者の鋭敏な臭覚に、敬意を表する。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


September 1392000

 木瓜の實をはなさぬ枝のか細さよ

                           後藤夜半

目は「はなさぬ」にあるのだろう。「はなさぬ」だから、木瓜(ぼけ)の枝は我とわが身の一部を「にぎっている」のである。木瓜の木を、擬人化しているわけだ。数日前にこの句を読んで、つくづくと「木瓜の實」がなっている姿をみつめることになった。近所にあるので、何度か見に行った。たしかに「か細い」枝である。直径三センチくらいの球形の実が、さながらサクランボのように、あちこちにかたまってなっている。物理的な必然から、当然に「か細い」枝はしなっている。夜半の書いたとおりだ。私は一度も、木瓜の枝など注視したことはなかったので、さすがに俳句の人は凄いもんだと感心した。でも、いくら熱心に見ても「はなさぬ」という見立てには通じなかった。この擬人化は何のためなのだろうかと、逆に疑念がわいてきてしまった。よく、わからない。悩んだあげくの(いまのところの)結論として、「か細さよ」を強調するためのテクニックだろうと決めてみた。しなった枝に、人間並みの「健気さ」を見ているのだと……。好意的にこれをとって、作者の身近に「擬木瓜化」したいような健気な「人」が存在していたのだろうと……。「木瓜」を詠んで「人」を詠んだのだと。実は私は、たいした理由根拠もないけれど、どうも動植物の擬人化が好きになれない。チャーリー・ブラウンは好きですが、スヌーピーはそんなに好きじゃないのです。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます