シドニー五輪。周辺では、話題にする人すらいない。日本人の五輪意識も、すっかり変わりましたね。




2000ソスN9ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0692000

 やはらかに人わけゆくや勝角力

                           高井几菫

力(相撲)は、元来が秋の季語。勝ち力士の所作が「やはらかに」浮き上がってくる。六尺豊かな巨漢の充実した喜びの心が、よく伝わってくる。目に見えるようだ。相撲取りとは限るまい。人の所作は、充実感を得たときに、おのずから「やはらか」くなるものだろうから……。だから、私たちにも、この句がとてもよくわかるのである。もう一句。角力で有名なのは、蕪村の「負まじき角力を寝物がたり哉」だ。負け角力の口惜しさか、それとも明日の大一番を控えての興奮か。角力を「寝床」のなかにまで持ち込んでいる。蕪村は「角力」を「すまひ」と読ませていて、取り口を指す。さて、解釈。蕪村の芝居っ気を考えれば、負け相撲の口惜しさを、女房に訴えていると解釈したいところだ。が、この「寝物がたり」のシチュエーションについては、昔から三説がある。力士の女房との寝物語だという説。そうではなくて、相撲部屋での兄弟弟子同士の会話だとする説。もう一つは、力士ではなく熱狂的なファンが妻に語っているとする説。どれが正解だとは言えないが、そこが俳句の面白さ。読者は、好みのままに読めばよい。ファン説は虚子の解釈で、これを野球ファンに置き換えると、私にも思い当たることはあった。すなわち「一句で三倍楽しめる」句ということにもなる。(清水哲男)


September 0592000

 んの字に膝抱く秋の女かな

                           小沢信男

立ての妙。「余白句会」で、満座の票をかっさらった句だ。たしかに「んの字」の形をしている。「女」は、少女に近い年齢だろう。まだあどけなさを残した「女」が物思いにふけっている様子だから、その姿に「秋」を感じるのだ。「んの字」そのものが、相対的に見ると、独立した(成熟した)言語としての働きを持たないので、なおさらである。爽やかさと寂しさが同居しているような、秋にぴったりの風情。からっとして、ちょっぴり切ない風が、読者に吹いてくる。佐藤春夫の詩の一節に「泣きぬれた秋の女を/時雨だとわたしは思ふ」(表記不正確)があり、同じ「秋の女」でも、こちらには成人した女性を感じさせられる。時雨のように、この「女」はしめっぽい。そして、色っぽい。ついでに、私がそらんじている「女」の句に、島将五の「晩涼やチャックで開く女の背」がある。「晩涼」は、夏の夕暮れの涼しさ。小沢信男は「女」を横から見ているが、島は背後から見ている。すっとチャックを降ろしたとすると、真っ白い背中が現われる。……という幻想。これだけで涼味を感じさせる俳句も凄いが、考えてみたらそうした感覚を喚起する「女」のほうが、もっと凄い。ねえ、ご同役(??)。「男」だって、簡単に「んの字」くらいにはなれる。いまどきの「地べたリアン」なんて、みんなそうじゃないか。などと、冗談にもこんなことを言うヤツを、常識では野暮天と言う。小沢や島、そして佐藤の「粋」が泣く。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


September 0492000

 切るだけで貼らぬ切抜き秋暑し

                           後藤雅夫

聞や雑誌の記事の「切抜き」。仕事にせよ趣味にせよ、あれはなかなか面倒なものだ。切り抜くだけは切り抜いても、きちんとスクラップ・ブックに貼っておかないと、用をなさない。つい、切り抜いたままにしてしまう。それが、どんどん溜まってくる。作者の机上にあるのは、おそらく今日の「切抜き」だけではないのだろう。涼しくなったらちゃんと整理しようと思っていたのが、いっこうに涼しくなってくれない。残暑が厳しい。だから、今日も面倒になって、切り抜いたままで放置してしまった。もちろん、大いに気にはなっている。その気持ちが「秋暑し」に、ぴたりと結びついている。私にも「切抜き」の覚えがあるので、よくわかる。何度もチャレンジして、一度も成功しなかった。本棚にはスクラップ・ブックが数冊あるが、引っ張り出すと、ばらばらっと貼ってない「切抜き」が抜け落ちてくる。おのれの怠惰を見せつけられたようで、愉快な気分じゃない。ならば貼らないで整理しようかと、山根一眞流に、項目分けした袋に放り込む方針に転換した。「俳句」の記事は「俳句」と書いた袋に、「野球」関係は「野球」の袋にと。この方法はけっこう長続きしたが、そのうちに切り抜くこと自体が面倒になり、あえなく頓挫。こういうことは、性に合わないらしい。『冒険』(2000)所収。(清水哲男)




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