家屋の耐震診断に補助金を出す自治体は多い。が、受診者は少ない。危険と出たら自前で修理だから。




2000ソスN9ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0292000

 朝顔にうすきゆかりの木槿かな

                           与謝蕪村

槿(むくげ)の花盛りの様子は、江戸期蕉門の俳人が的確に描いているとおりに「塀際へつめかけて咲く木槿かな」(荻人)という風情。盛りには、たしかに塀のあたりを圧倒するかの趣がある。とくに紅色の花は、実にはなやかにして、あざやかだ。残暑が厳しいと、暑苦しさを覚えるほどである。ところで、掲句。なんだかうら寂しい調子で、およそ荻人句の勢いには通じていない。それは蕪村が、木槿に命のはかなさを見ているからだ。たいていの木槿は早朝に咲き、一日でしぼんで落ちてしまう。そこが朝顔との「うすきゆかり」なのである。花の命は短くて「槿花一日の栄」と言ったりもする。しかし私には、どうもピンとこない。たとえ盛りを過ぎても、木槿の花にこの種の寂しさを感じたことはない。理屈としては理解できるが、次から次へと咲きつづけるし花期も長いので、むしろ逞しささえ感じてきた。桜花の短命とは、まったく異なる。『白氏文集』では、松の長寿に比してのはかなさが言われているから、掲句は実感を詠んだというよりも、教養を前面に押し立てた句ではないだろうか。句の底に、得意の鼻がピクッと動いてはいないか。そんな気がしてならない。一概に教養を踏まえた句を否定はしないけれど、これでは「朝顔」が迷惑だろう。失敗した(!?)理屈句の見本として、我が歳時記に場所を与えておく。(清水哲男)


September 0192000

 九月はじまる無礼なる電話より

                           伊藤白潮

あ、今日から九月。学校もはじまり、人々の生活も普段の落ち着きを取り戻す。気分一新。さわやかにスタートといきたかったのに、受話器を取ったら、まことに不愉快な電話だった。張り切ろうとした出鼻をくじかれた。プンプン怒っている作者の姿が、目に浮かぶ。同情はするけれど、なんとなく滑稽でもある。伊藤白潮は、このような人事の機微を詠ませたら、当代一流の俳人だ。なんとなく滑稽なのは、それこそなんとなく私たちが抱いている「九月」の常識的なイメージを、ひょいと外しているからである。この外し方の妙が、滑稽味を呼び寄せる。むろん、作者は承知の上。なんでもないようでいて、そこが手だれの腕の冴えと言うべきだろう。季語に執しつつ、季語にべたべたしない。実作者にはおわかりだろうが、この関係を句に反映させるのは、なかなかに困難だ。その意味で、掲句は大いに参考になるのではなかろうか。……と、私の「九月」は、この短い観賞文からはじまりました。あなたの「九月」は、どんなふうにはじまったのでしょう。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


August 3182000

 夏休み果つよ音痴のハーモニカ

                           中谷朔風

かった夏休みも、今日でおしまいだ。何事につけ、おしまいには寂寥感が漂う。作者はおそらく、休みの間中、近所の家から聞こえてくる子供の下手なハーモニカに悩まされつづけたのだろう。熱心なのは結構だが、ひどい調子外れだけは何とかならないものか、と。でも、それも今日でおしまいだと思うと、逆になんだか寂しい気持ちになってくる。ピアノやバイオリンなどよりも、ハーモニカの音色そのものが寂しさを伴っているので、寂寥効果を引き上げている。「音痴のハーモニカ」がおしまいになれば、作者の夏もおしまいである……。夏休みの終わりといえば、嶋田摩耶子に「夏休み最後の午後の捕虫網」がある。まだ宿題ができていなくて昆虫採集に励んでいるのか、あるいはいつもと同じ調子で捕虫網を振り回しているのか。いずれにしても、もう明日からはこの活発な様子は見られない。「最後の午後」と言い止めたところに、やはりいくばくかの寂寥の心が滲んでいる。「もう、秋か」。ランボーの詩句がよみがえるのも、今日。新潮社版『俳諧歳時記・夏』(1968)所載。(清水哲男)




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