夏休みの宿題はよく忘れた。嘘なのだが教師も受け入れてくれた。「忘れた」が通用した優しい教室。




2000ソスN9ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0192000

 九月はじまる無礼なる電話より

                           伊藤白潮

あ、今日から九月。学校もはじまり、人々の生活も普段の落ち着きを取り戻す。気分一新。さわやかにスタートといきたかったのに、受話器を取ったら、まことに不愉快な電話だった。張り切ろうとした出鼻をくじかれた。プンプン怒っている作者の姿が、目に浮かぶ。同情はするけれど、なんとなく滑稽でもある。伊藤白潮は、このような人事の機微を詠ませたら、当代一流の俳人だ。なんとなく滑稽なのは、それこそなんとなく私たちが抱いている「九月」の常識的なイメージを、ひょいと外しているからである。この外し方の妙が、滑稽味を呼び寄せる。むろん、作者は承知の上。なんでもないようでいて、そこが手だれの腕の冴えと言うべきだろう。季語に執しつつ、季語にべたべたしない。実作者にはおわかりだろうが、この関係を句に反映させるのは、なかなかに困難だ。その意味で、掲句は大いに参考になるのではなかろうか。……と、私の「九月」は、この短い観賞文からはじまりました。あなたの「九月」は、どんなふうにはじまったのでしょう。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


August 3182000

 夏休み果つよ音痴のハーモニカ

                           中谷朔風

かった夏休みも、今日でおしまいだ。何事につけ、おしまいには寂寥感が漂う。作者はおそらく、休みの間中、近所の家から聞こえてくる子供の下手なハーモニカに悩まされつづけたのだろう。熱心なのは結構だが、ひどい調子外れだけは何とかならないものか、と。でも、それも今日でおしまいだと思うと、逆になんだか寂しい気持ちになってくる。ピアノやバイオリンなどよりも、ハーモニカの音色そのものが寂しさを伴っているので、寂寥効果を引き上げている。「音痴のハーモニカ」がおしまいになれば、作者の夏もおしまいである……。夏休みの終わりといえば、嶋田摩耶子に「夏休み最後の午後の捕虫網」がある。まだ宿題ができていなくて昆虫採集に励んでいるのか、あるいはいつもと同じ調子で捕虫網を振り回しているのか。いずれにしても、もう明日からはこの活発な様子は見られない。「最後の午後」と言い止めたところに、やはりいくばくかの寂寥の心が滲んでいる。「もう、秋か」。ランボーの詩句がよみがえるのも、今日。新潮社版『俳諧歳時記・夏』(1968)所載。(清水哲男)


August 3082000

 青瓢ふらり散歩に出でしまま

                           櫛原希伊子

(ふくべ)は瓢箪(ひょうたん)の実。まだ青い瓢が、ふらりと下がっている。この様子を「散歩」の「ふらり」にかけた句。ちょっとそこまでと出かけて、なかなか戻ってこない人。悪友に出くわして赤提灯にでもしけこんだか、麻雀屋でジャラジャラはじめてしまったか。待つ身としては腹立たしくもあり、その毎度の暢気さが可笑しくもあり……。最初に、私はこう読んだ。しかし、作者の自註によると、そんな暢気な話ではなかった。「散歩に行ってくるよと、そのまま帰らぬ人となった友がいる。この次、何が起るか知れぬ不安」を詠んだ句だった。もちろん、句だけからここまで読み取ることはできないだろう。だが、注意深く読むと、なるほど単に暢気な人の様子を詠んでいるのではないことはうかがえる。キーは「青瓢」の「青」にある。この「青」は、上五に「瓢」を安定させるための修辞的な付けたしではない。「青」に若い生命を象徴させて、句全体にかぶせられていたのだった。暢気を詠むのであれば、たとえば「瓢箪や」くらいのほうが効果的だろう。「青瓢ね、ああ、瓢箪だからふらりだね」と読んでしまった私が軽率だった。暢気だった。十七音、おそるべし。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)




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