太陽の高度が低くなってきた。もう少し経つと放送中の私の目を直撃する。スタジオでも季節は移る。




2000ソスN8ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 3082000

 青瓢ふらり散歩に出でしまま

                           櫛原希伊子

(ふくべ)は瓢箪(ひょうたん)の実。まだ青い瓢が、ふらりと下がっている。この様子を「散歩」の「ふらり」にかけた句。ちょっとそこまでと出かけて、なかなか戻ってこない人。悪友に出くわして赤提灯にでもしけこんだか、麻雀屋でジャラジャラはじめてしまったか。待つ身としては腹立たしくもあり、その毎度の暢気さが可笑しくもあり……。最初に、私はこう読んだ。しかし、作者の自註によると、そんな暢気な話ではなかった。「散歩に行ってくるよと、そのまま帰らぬ人となった友がいる。この次、何が起るか知れぬ不安」を詠んだ句だった。もちろん、句だけからここまで読み取ることはできないだろう。だが、注意深く読むと、なるほど単に暢気な人の様子を詠んでいるのではないことはうかがえる。キーは「青瓢」の「青」にある。この「青」は、上五に「瓢」を安定させるための修辞的な付けたしではない。「青」に若い生命を象徴させて、句全体にかぶせられていたのだった。暢気を詠むのであれば、たとえば「瓢箪や」くらいのほうが効果的だろう。「青瓢ね、ああ、瓢箪だからふらりだね」と読んでしまった私が軽率だった。暢気だった。十七音、おそるべし。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


August 2982000

 とんぼ連れて味方あつまる山の国

                           阿部完市

味方に分かれての遊び。学校から戻ってくると、飽きもせずに毎日繰り返す。だが、子供にも事情というものはあるから、互いのメンバーがいっせいに揃うということはない。適当な人数が集まったところで、試合開始だ。敵味方は、いつも通りの組み合わせ。片方が少ないからといって、相手から戦力を借りるようなことはしない。それでは、気持ちが「戦い」にならない。非力劣勢はわかっていても、堂々と戦うのだ。男の子の侠気である。多勢に無勢、苦戦していると、遠くの方から一人、また一人と「味方」が駆けてきた。集まってきた。このときの嬉しさったら、ない。そんなに上手な子ではなくても、百万の「味方」を得たような気分になる。周辺に飛んでいる「とんぼ」までをも、その子が「味方」に連れてきたように感じたということ。「山の国」の日暮れは早い。さあ、ドンマイ、ドンマイ、挽回だ。私が子供だったころの子供の事情の多くは、宿題や勉強にはなかった。仕事だった。子守りや炊事に洗濯、水汲みに風呂わかし、家畜の世話など、農家の子供は仕事を終えてからでないと遊べなかった。農家に限らず、日本中で子供が働いていた時代が確かにあった。掲句は、そうした時代背景を知らないと、よく理解できないかもしれない。『絵本の空』所収。(清水哲男)


August 2882000

 秋日傘風と腕くむ女あり

                           森 慎一

ずやかな白い風を感じる。まだ残暑は厳しいが、まるで風と腕を組むように軽やかに歩いている日傘の女。その軽快な足取りが、もうそこまで来ている秋を告げている。「風と腕くむ」とは、卓抜な発見だ。これが雨傘だと、身をすぼめるようにして歩くので、「風」とも誰とも「腕くむ」わけにはまいらない。「日傘」でなければならない。句を読んで、妙なことに気がついた。いつのころからか、実際に腕を組んで歩くカップルの姿を、あまり見かけなくなった。手を握りあっている男女は多いけれど、なぜなのだろう。昔の銀座通りなどには、これ見よがしに腕を組んで歩くアベックなど、いくらでもいたというのに……。基地の街・立川や福生では、米兵と腕くむ女たちが「くむ」というよりも「ぶら下がっている」ように見えたっけ。そこで、屁理屈。「腕をくむ」行為は、お互いに支え合う気持ちがあり、建設的な連帯感がある。未来性を含んでいる。比べて、手を握りあう行為には、未来性が感じられない。「ただいま現在」が大切なのであって、時間的にも空間的にも、視野の狭い関係のように写る。どっちだろうと、知ったこっちゃない(笑)。が、恋人たちの生態にも、やはり時代の影というものは落ちてくる。いまは、刹那が大切なのだ。男から三歩下がって、女が歩いた時代もあった。いまでは、腕をくむ相手も「風」とだけになっちまったということか。立てよ、秋風。白い風。『風のしっぽ』(1996)所収。(清水哲男)




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