新聞には食品会社のお詫びだらけ。このままいくと「衛生ニッポン、腹減る我等」に。おわかりかナ。




2000ソスN8ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2682000

 芋茎和へ出羽三山は夜に入る

                           大沢知々夫

刻の台所で「芋茎(ずいき)」を和えていると、はや「出羽三山」(月山・羽黒山・湯殿山)は夜に入ったと言うのである。ぐんぐんと日が短くなってきた感覚を、スケール豊かに反映させた句。小さな厨房を大きな「出羽三山」の漆黒に取り巻かせたところが、印象を強く残す。漆黒の闇の奥には、既に厳しい冬の気配も兆しているのだろう。「芋茎」は、里芋の茎だ。残念ながら、和えて食べたことはない。ご飯のおかずではなく、ちょっとした酒肴なのだろうか。私の少年時代には、ご飯のおかずとして、醤油と砂糖でやわらかく煮て食べた。でも、和え物にせよ煮物にせよ、それなりの風味はあるのだろうが、子供が好きになれる食べ物じゃないと思う。農家だったので、里芋の茎なんぞは捨てるほどあったし、事実大半は捨てていた。畑の隅に、山と積んで放置したのである。腐らせて、体裁よく言えば、土に返していた。ところが、子供だった私たちは、このクズでしかない芋茎の新しい使い道を考えついた。野球のボールの代わりにするのである。細い部分を切り取ってくるくるっと巻いてから紐で堅く縛り、そいつを投げたり打ったりした。本物のボールなどなかったころだから、この使い道は、たいした発見だった。資源は豊富というよりも、無尽蔵に近い。いつでも、ニュー・ボールが入手できる理屈だ。井上ひさしの『下駄の上の卵』にも「里芋の茎ボールで練習するより仕方ねえな」と出てくる。後年この小説を読んだときに、「仕方ねえ」のは全国的だったと知ると同時に、子供の知恵も全国共通だったんだなと驚きもし、感心もした。「味の味」(2000年9月号)所載。(清水哲男)


August 2582000

 生涯にまはり燈籠の句一つ

                           高野素十

書に「須賀田平吉君を弔ふ」とある。素十の俳句仲間だろうが、どんな人だったのかは知る由もない。「須賀田平吉君」が亡くなった。そこで思うことに、ずいぶんと熱心に句を作ってはいたが、はっきり言って下手な男だった。ヘボ句の連発には、閉口させられたものだ。だが、たった一度だけ、彼が句会で満座を唸らせた「まはり燈籠」の句がある。実に見事な句であった。誰もが「あれは名句だねえ」と、いつまでも覚えている。通夜の席でも、当然のようにその話が出た。……こんな具合だろうか。故人への挨拶句としては珍しい作りであり、しかも友情がじわりと沁み出ている佳句だ。おそらくは「須賀田平吉君」が存命のときにも、作者はこの調子で軽口を叩いていたにちがいない。だからこその手向けの一句になるのであって、あまり親しくもなかった人がこんな句を作ったら、顰蹙モノだろう。その上、故人の句の季題が「月」でも「花」でもなく「まはり燈籠」であったことにも、人の運命のはかなさを感じさせられる。どんな句だったのか、読んでみたい。考えてみれば「生涯に一句」とは、たいしたものなのである。たいがいの人は「一句」も残せずに、人生を終えてきた。ところで「まはり燈籠」の季節だが、当歳時記では「燈籠」の仲間として「秋」に分類しておく。でも、遊び心のある涼しさを楽しむ燈籠だから、夏の季語としたほうがよいのかも知れぬ。ただし、掲句がどの季節に詠まれたのかは不明なので、本当の作句の季節はわからない。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


August 2482000

 夢で首相を叱り桔梗に覚めており

                           原子公平

頃から、よほど首相の言動に腹を立てていたのだろう。堪忍袋の緒が切れて、ついに首相をこっぴどく叱責した。その剣幕に、首相はひたすら低頭するのみ。と、ここまでは夢で、目覚めると「きりきりしやんと」(小林一茶)咲く桔梗(ききょう)が目に写った。夢のなかの毅然としたおのれの姿も、かくやとばかり……。このときに、寝覚めの作者はほとんど桔梗なのである。しかしそのうちに、だんだんと現実の虚しさも蘇ってくる。それが「覚めており」と止められている所以だ。苦い味。無告の民の心の味がする。昨日の話を蒸し返せば、掲句の主体も共同社会にオーバーラップしている。ちなみに、一茶の句は「きりきりしやんとしてさく桔梗かな」だ。その通り、見事な描写。文句なし。いずれも花の盛りを詠んでいるが、盛りがあれば衰えもある。高野素十に「桔梗の紫さめし思ひかな」があり、こちらは夢で首相を叱る元気もない。盛りを過ぎた桔梗(この場合は「きちこう」と読むのだろう)に色褪せた我が心よと、作者は物思いに沈みこんでいる。花の盛りが短いように、人の盛りも短い。花の盛りは見ればわかるが、人の盛りは我が事ながら捉えがたい。私の人生で、いちばん「きりきりしやん」としていたのは、いったい、いつのことだったのだろう。「桔梗」は秋の七草。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)




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