あまり書店に行かなくなった。行っても欲しい本がない。どんな本屋なのかもわからない。何もない。




2000ソスN8ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2582000

 生涯にまはり燈籠の句一つ

                           高野素十

書に「須賀田平吉君を弔ふ」とある。素十の俳句仲間だろうが、どんな人だったのかは知る由もない。「須賀田平吉君」が亡くなった。そこで思うことに、ずいぶんと熱心に句を作ってはいたが、はっきり言って下手な男だった。ヘボ句の連発には、閉口させられたものだ。だが、たった一度だけ、彼が句会で満座を唸らせた「まはり燈籠」の句がある。実に見事な句であった。誰もが「あれは名句だねえ」と、いつまでも覚えている。通夜の席でも、当然のようにその話が出た。……こんな具合だろうか。故人への挨拶句としては珍しい作りであり、しかも友情がじわりと沁み出ている佳句だ。おそらくは「須賀田平吉君」が存命のときにも、作者はこの調子で軽口を叩いていたにちがいない。だからこその手向けの一句になるのであって、あまり親しくもなかった人がこんな句を作ったら、顰蹙モノだろう。その上、故人の句の季題が「月」でも「花」でもなく「まはり燈籠」であったことにも、人の運命のはかなさを感じさせられる。どんな句だったのか、読んでみたい。考えてみれば「生涯に一句」とは、たいしたものなのである。たいがいの人は「一句」も残せずに、人生を終えてきた。ところで「まはり燈籠」の季節だが、当歳時記では「燈籠」の仲間として「秋」に分類しておく。でも、遊び心のある涼しさを楽しむ燈籠だから、夏の季語としたほうがよいのかも知れぬ。ただし、掲句がどの季節に詠まれたのかは不明なので、本当の作句の季節はわからない。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


August 2482000

 夢で首相を叱り桔梗に覚めており

                           原子公平

頃から、よほど首相の言動に腹を立てていたのだろう。堪忍袋の緒が切れて、ついに首相をこっぴどく叱責した。その剣幕に、首相はひたすら低頭するのみ。と、ここまでは夢で、目覚めると「きりきりしやんと」(小林一茶)咲く桔梗(ききょう)が目に写った。夢のなかの毅然としたおのれの姿も、かくやとばかり……。このときに、寝覚めの作者はほとんど桔梗なのである。しかしそのうちに、だんだんと現実の虚しさも蘇ってくる。それが「覚めており」と止められている所以だ。苦い味。無告の民の心の味がする。昨日の話を蒸し返せば、掲句の主体も共同社会にオーバーラップしている。ちなみに、一茶の句は「きりきりしやんとしてさく桔梗かな」だ。その通り、見事な描写。文句なし。いずれも花の盛りを詠んでいるが、盛りがあれば衰えもある。高野素十に「桔梗の紫さめし思ひかな」があり、こちらは夢で首相を叱る元気もない。盛りを過ぎた桔梗(この場合は「きちこう」と読むのだろう)に色褪せた我が心よと、作者は物思いに沈みこんでいる。花の盛りが短いように、人の盛りも短い。花の盛りは見ればわかるが、人の盛りは我が事ながら捉えがたい。私の人生で、いちばん「きりきりしやん」としていたのは、いったい、いつのことだったのだろう。「桔梗」は秋の七草。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


August 2382000

 あの雲は稲妻を待たより哉

                           松尾芭蕉

ロゴロッと鳴ってピカーッと来る閃光。あれを「稲妻」とは言わない。古人曰く「光あつて雷ならざるをいふなり」。すなわち、秋季に「音も交えず、雨も降らさず、夜空を鋭く駆ける」(角川歳時記)光りが「稲妻」だ。ちょっとした遠花火の趣きもある。句の「待」は「まつ」と読み下す。夜空を遠望して、あの雲の様子ではそろそろ「稲妻」が現われるぞ。と、ただそれだけの句。「稲妻」の予兆を「たより」としたのが技といえば技だが、感心するほどのものでもない。それよりも注目すべきは、句の主体だろう。詠んだのは芭蕉に違いないが、べつに芭蕉に教えてもらわなくても、このような予感は当時の人々の常識であった。それを、芭蕉がわざわざ詠んだところに「俳句」がある。つまり、この句の真の主体は、芭蕉を含む共同社会なのだ。「みんな」が主語なのである。誰もが感じていることを、芭蕉が作品として書きつけたわけだ。正直言って、面白い句ではない。作者の発見がないからである。でも、考えてみれば、俳句は短い詩型であるだけに、誰が書こうと共同社会が究極の(隠されてはいても)主体なのだという認識を、作者が欠いてしまったら「俳句」にはならない。理解不能になるだけである。その意味からすれば、面白みはないとしても、この一行は「俳句」だとしか言いようガない。「オレが、ワタシが」では「俳句」にはならないのである。「俳句」の説得力は、ここに根ざしていないかぎり、常に空振りとなるだろう。面白くない句が何故面白くないかを考えるとき、かなりの確率で問題はここに帰着する。そんな気持ちで掲句に戻ると、悪くはないなという気もしてくる。テレビの天気予報官なら、早速使いたくなるはずの一句だ。(清水哲男)




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