敵味方を問わず軍隊に人命尊重の思想はない。原潜の操作自体が戦争行為なのだから何をかいわんや。




2000ソスN8ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2482000

 夢で首相を叱り桔梗に覚めており

                           原子公平

頃から、よほど首相の言動に腹を立てていたのだろう。堪忍袋の緒が切れて、ついに首相をこっぴどく叱責した。その剣幕に、首相はひたすら低頭するのみ。と、ここまでは夢で、目覚めると「きりきりしやんと」(小林一茶)咲く桔梗(ききょう)が目に写った。夢のなかの毅然としたおのれの姿も、かくやとばかり……。このときに、寝覚めの作者はほとんど桔梗なのである。しかしそのうちに、だんだんと現実の虚しさも蘇ってくる。それが「覚めており」と止められている所以だ。苦い味。無告の民の心の味がする。昨日の話を蒸し返せば、掲句の主体も共同社会にオーバーラップしている。ちなみに、一茶の句は「きりきりしやんとしてさく桔梗かな」だ。その通り、見事な描写。文句なし。いずれも花の盛りを詠んでいるが、盛りがあれば衰えもある。高野素十に「桔梗の紫さめし思ひかな」があり、こちらは夢で首相を叱る元気もない。盛りを過ぎた桔梗(この場合は「きちこう」と読むのだろう)に色褪せた我が心よと、作者は物思いに沈みこんでいる。花の盛りが短いように、人の盛りも短い。花の盛りは見ればわかるが、人の盛りは我が事ながら捉えがたい。私の人生で、いちばん「きりきりしやん」としていたのは、いったい、いつのことだったのだろう。「桔梗」は秋の七草。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


August 2382000

 あの雲は稲妻を待たより哉

                           松尾芭蕉

ロゴロッと鳴ってピカーッと来る閃光。あれを「稲妻」とは言わない。古人曰く「光あつて雷ならざるをいふなり」。すなわち、秋季に「音も交えず、雨も降らさず、夜空を鋭く駆ける」(角川歳時記)光りが「稲妻」だ。ちょっとした遠花火の趣きもある。句の「待」は「まつ」と読み下す。夜空を遠望して、あの雲の様子ではそろそろ「稲妻」が現われるぞ。と、ただそれだけの句。「稲妻」の予兆を「たより」としたのが技といえば技だが、感心するほどのものでもない。それよりも注目すべきは、句の主体だろう。詠んだのは芭蕉に違いないが、べつに芭蕉に教えてもらわなくても、このような予感は当時の人々の常識であった。それを、芭蕉がわざわざ詠んだところに「俳句」がある。つまり、この句の真の主体は、芭蕉を含む共同社会なのだ。「みんな」が主語なのである。誰もが感じていることを、芭蕉が作品として書きつけたわけだ。正直言って、面白い句ではない。作者の発見がないからである。でも、考えてみれば、俳句は短い詩型であるだけに、誰が書こうと共同社会が究極の(隠されてはいても)主体なのだという認識を、作者が欠いてしまったら「俳句」にはならない。理解不能になるだけである。その意味からすれば、面白みはないとしても、この一行は「俳句」だとしか言いようガない。「オレが、ワタシが」では「俳句」にはならないのである。「俳句」の説得力は、ここに根ざしていないかぎり、常に空振りとなるだろう。面白くない句が何故面白くないかを考えるとき、かなりの確率で問題はここに帰着する。そんな気持ちで掲句に戻ると、悪くはないなという気もしてくる。テレビの天気予報官なら、早速使いたくなるはずの一句だ。(清水哲男)


August 2282000

 秋桜好きと書かないラブレター

                           小枝恵美子

ッと読むと、「なあんだ」という句。よくある少女の感傷を詠んだにすぎない。でも、パッパッパッと三度ほど読むと、なかなかにしぶとい句だとわかる。キーは「秋桜」。つまり、コスモスをわざわざ「秋桜」と言い換えているわけで、この言い換えが「好きと書かない」につながっている。婉曲に婉曲にと、秘術(?!)をつくしている少女の知恵が、コスモスと書かずに「秋桜」としたところに反映されている。ラブレターは、自己美化のメディアだ。とにかく、自分を立派に見せなければならない。それも、できるかぎり婉曲にだ。さりげなく、だ。そのためには、なるべく難しそうな言葉を選んで「さりげない」ふうに書く。「秋桜」も、その一つ。で、後年、その浅知恵に赤面することになる。掲句で、実は作者が赤面していることに、賢明なる読者は既にお気づきだろう。以下は、コスモスの異名「秋桜」についての柴田宵曲の意見(『俳諧博物誌』岩波文庫)。「シュウメイギク(貴船菊)を秋牡丹と称するよりも、遥か空疎な異名であるのみならず秋桜などという言葉は古めかしい感じで、明治の末近く登場した新しい花らしくない。(中略)如何に日本が桜花国であるにせよ、似ても似つかぬ感じの花にまで桜の名を負わせるのは、あまり面白い趣味ではない。(中略)秋桜の名が広く行われないのは、畢竟コスモスの感じを現し得ておらぬ点に帰するのかも知れない」。さんざんである。同感である。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)




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