生きていれば、いつか会える。しかし、生きられたのは偶然にすぎない。朝鮮民族のことだけに非ず。




2000ソスN8ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1682000

 送り火の法も消えたり妙も消ゆ

                           森 澄雄

暦7月16日(現在は8月16日)の夜8時、まず京都如意ヶ岳の山腹に「大」の字のかがり火が焚かれ、つづいて「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」が次々と点火される。荘厳にして壮大な精霊送火だ。荘厳で壮大であるがゆえに、消えていくときの寂寥感も一入。しばしこの世に戻っていた縁者の霊とも、これでお別れである。「妙法」は「妙法蓮華経」の略だから、五山のかがり火のなかでは、唯一明確に仏教的な意味合いを持つ。その意味合いを含めて、作者は一文字ずつ消えてゆく火に寂しさを覚えている。大学時代の私の下宿は、京都市北区小山初音町にあった。窓からは如意ヶ岳がよく見え、「大文字」の夜は特等席みたいなものだった。点火の時刻が近くなると、なんとなく町がざわめきはじめ、私も部屋の灯りを消して待ったものだ。「大」の文字が浮かび上がるに連れて、あちこちで賛嘆の声があがりはじめる。クライマックスには、町中がウワーンという声ともつかぬ独特の音の響きで占められる。実際に声が聞こえてくるというよりも、そんな気になってしまうのかもしれない。あの、いわば低音のどよめきが押し寄せてくる感じは忘れられない。蕪村に「大文字やあふみの空もたゞならぬ」があるが、その「たゞならぬ」気配は町中にも満ちるのである。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


August 1582000

 秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみか

                           高浜虚子

句時点は、敗戦の日から一週間を経た八月二十二日。このころ虚子は小諸に疎開しており、前書に「在小諸。詔勅を拝し奉りて、朝日新聞の求めに応じて」とある。掲句につづくのは、次の二句である。「敵といふもの今は無し秋の月」「黎明を思ひ軒端の秋簾見る」。この二句は凡庸だが、掲句には凄みを感じる。虚子としては、おそらくは生まれてはじめて、正面から社会と対峙する句を求められた。この「国難」に際して、はたして「花鳥諷詠」はよく耐えられるのか。まっすぐに突きつけられた難題に、虚子は泣かない(鳴かない)「蓑虫(みのむし)」をも泣かせることで、まっすぐに答えてみせた。「蓑虫」とは、もちろん物言わぬ一庶民としての自分の比喩でもある。「秋蝉」との季重なりは承知の上で、みずからの心に怒濤のように迫り来た驚愕と困惑と悲しみとを、まさかの敗戦など露ほども疑わなかった多くの人々と共有したかった。青天の霹靂的事態には、人は自然のなかで慟哭するしかないのだと……。無力なのだと……。「蓑虫」や「秋蝉」に逃げ込むのはずるいよと、若き日の私は感じていた。しかし、虚子俳句の到達点がはからずも示された一句なのだと、いまの私は考えている。みずからの方法を確立した表現者は、死ぬまでそれを手ばなすことはできないのだ。掲句の凄みは、そのことも含んでいる。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)

ちょっと一言・国文的常識のうちでは、蓑虫はちゃんと鳴く(泣く)。『枕草子』に「秋風吹けば父恋しと鳴く」と出てくるからだ(長くなるので、なぜ鳴くかは省略。原典参照)。この話から「蓑虫」は秋の季語になったと言ってよい。もちろん、虚子は百も承知であった。


August 1482000

 枝豆やこんなものにも塩加減

                           北大路魯山人

者は、あの陶芸家の魯山人。料理の研究家としても有名だった。たしかに、言えている。「こんなものにも」そして「どんなものにも」、ちょっとした匙加減一つで美味くもなれば不味くもなる。句の出典は不明。たまたま、辻嘉一(懐石料理「辻留」主人)の『味覚三昧』(1979)を読んでいて思い出した。両者は面識があったのだが、この本にこの句は載っていない。いったい、どこで私はこの句を知ったのだろう。で、辻嘉一は書いている。「塩水を煮立たせた中へ大豆を入れ、蓋をしないで茹でると色よく茹であがります。しかし、本当の旨味は、水から塩加減の中でゆっくり軟かく茹でて、蓋をしておき、冷えるのを待っていただくと、その味わいは素晴しく、歯ざわりりはむっちりとして、味が深いものですが、退色して茶っぽくなり、いくらでも食べられるので気をつけましょう」。とすると、ビアホールなどで出てくる緑色の「枝豆」は、本当の旨味を引き出していないわけだ。子供のころに母が茹でてくれたものは、そう言えば、きれいな色はしていなかった。「塩加減」ならぬ「茹で加減」が違ったのだ。「色」か「味」か。現代では、圧倒的に「色」のよいものが好まれる。なお「枝豆」は、それこそビアホールなどで初夏くらいから出回るために、旬はとっくに過ぎていると錯覚している人もいるようだ。が、実はこれから。秋の季語。「豆名月」という季語もあり、名月に供えるのは「枝豆」と決まっている。(清水哲男)




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