マンションの人の気配が薄くなった。どこかに出かけた人が多いのだろう。静かで居残り組も快適だ。




2000ソスN8ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0682000

 魔の六日九日死者ら怯え立つ

                           佐藤鬼房

月「六日」は広島原爆忌、「九日」は長崎原爆忌。原爆の残虐性に対して、これほどまでに怒りと戦慄の情動をこめて告発した句を、他に知らない。死してもなお「魔」の日になると「怯え立つ」……。原爆による死者は、いつまでも安らかには眠れないでいるのだと、作者は言うのである。原爆投下時に、作者はオーストラリア北部のスンバワ島を転戦中だった。敗戦後は捕虜となり、連作「虜愁記」に「生きて食ふ一粒の飯美しき」などがある。だから、原爆忌や敗戦日がめぐってくると、おざなりの弔旗を掲げる気持ちにはなれなくて、心は「死者」と一体となる。弔旗は弔旗でも、句は死者と生者にむかって、永遠に振りまわしつづける万感溢れる「弔旗」なのだ。原爆の日から半年後の早春に、私は夜汽車で広島駅を通過した。小学二年生だったが、「ヒロシマ」というアナウンスに目が覚め、プラットホームや背後の街に目を凝らしたことをはっきりと覚えている。ホームにも街にも灯がほとんどなく、全体はよく見えなかった。大きな駅だという雰囲気は感じられたが、子供心にも「死の街」だと思った。生き残った被爆者の方々の平均年齢は、今年で七十歳を越えたという。『半迦坐』(1988)所収。(清水哲男)


August 0582000

 子の中の愛憎淋し天瓜粉

                           高野素十

上がりの子供に、天瓜粉(てんかふん)をはたいてやっている。いまなら、ベビー・パウダーというところ。鷹羽狩行に「天瓜粉しんじつ吾子は無一物」があって、父親の情愛に満ちたよい句だが、素十はここにとどまらず、さらに先へと踏み込んでいる。こんな小さな吾子にも、すでに自意識の目覚めが起きていて、ときに激しく「愛憎」を示すようになってきた。想像だが、このときに天瓜粉をつけようとした父親に対して、子供がひどく逆らったのかもしれない。私の体験からしても、幼児の「愛憎」は全力で表現されるから、手に負えないときがある。その場はもちろん腹立たしいけれど、少し落ち着いてくると、吾子の「愛憎」表現は我が身のそれに照り返され、こんなふうではこの子もまた、自分と同じように苦労するぞという思いがわいてきた……。さっぱりした天瓜粉のよい香りのなかで、しかし、人は生涯さっぱりとして生きていけるわけではない、と。そのことを、素十は「淋し」と言い止めたのだ。「天瓜粉」は、元来が黄烏瓜(きからすうり)の根を粉末にしたものだった。「天瓜」は烏瓜の異名であり、これを「天花」(雪)にひっかけて「天花粉」とも書く。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0482000

 ワタナベのジュースの素です雲の峰

                           三宅やよい

の峰は郷愁を誘う。「子供にだって郷愁はある」と言ったのは辻征夫だが、少年期を過ごした三宅島の夏の海での感慨だったような……。沖には、きっと巨大な雲の峰が聳えていただろう。空は未来を指さすけれど、雲の峰は人を過去へと連れていく。私だけの感受性かとも思ったりするが、どうやらそうでもないらしい。それにしても「ワタナベのジュースの素」とは、懐しや。すっかり、忘れていました。よく飲みました。「ジュースの素」である粉末をコップの水に溶かすだけ。オレンジ味、イチゴ味などがあり、それぞれにそれらしい色がついていたと記憶する。一世を風靡したのは、いつごろのことだったのか。いずれにせよ、日本がまだ貧乏だった時代だ。「ワタナベのジュースの素です、もうイッパイッ」というラジオのCMソングも流行した。1962年にテレビCMで登場したコカ・コーラの歌「スカッとさわやか、コカ・コーラーッ」も同工異曲だった。無理やりに、商品名を覚えさせられたという感じ。ちなみに、コカ・コーラの戦後の日本での発売は1961年だが、戦前にも輸入されたことがあり、高村光太郎や芥川龍之介も飲んだことがあるという。難しい顔で飲んでいる様子を想像すると、ほほ笑ましくなる。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)




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