「かもめーる」で暑中見舞いをいただく。抽選番号が記載されているけど、これって何が当たるのか。




2000ソスN7ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 3072000

 百日草芯よごれたり凡詩人

                           草間時彦

日草(ひゃくにちそう)はメキシコ原産。その名のとおりに、花期が長い。小学生の時に名前を教わって、なるほどねと感嘆した覚えがある。とにかく、暑い間はずうっと咲いている。原色に近い花なので、いつも埃ッぽい感じがする。べつに花の責任ではないけれど、あまりに生命力が強すぎるのも、うとましく思われる要素の一つとなる。そのうとましさを、みずからの非才になぞらえたのが掲句だ。一読して自嘲句とわかるが、長い間詩を書いてきた私などには切なすぎる。どんなに心を沈め集中しようとしても、詩心が澄んでくれないときがある。心の「芯」のよごれが振り払えないのだ。平たく言うと、アタリの感覚に至らないのである。こういうときには焦りますね。そんな作者の目の先に、うっとうしくも百日草が元気に咲いている。百日草には気の毒ながら、思わずもなぞらえたくなる発想は、よくわかる気がします。みずからを「凡詩人」と言い捨てて何かが解決するのならばともかく、何もはじまらないのだし、何も終わらない。わかっちゃいるけど、言わざるをえなかった。身も心も暑苦しい夏のひととき……。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


July 2972000

 いふまじき言葉を胸に端居かな

                           星野立子

まりに暑いと身体もだるくなるが、それに伴って心も弱くなりがちだ。隙(すき)もできる。こういうときには「いふまじき言葉」も、ポロリと吐き出しそうになったりする。つい、家人にアタりたくなってしまう。でも、それを言ってはおしまいなのだ。そこで作者は涼むふりをして、家人のいない縁側へと移動した。吐き出しそうになった言葉を、からくも胸に閉じこめて……。しかし、胸に秘めた言葉が言葉であるだけに、いっこうに暑さはおさまらない。「端居(はしい)」は、家内の暑さを避けて、風通しのよい縁先などでくつろぐこと。日常的にはお目にかからない言葉だが、俳句ではいまでも普通に使われている。短い詩型だけに、縁側のある家が少なくなった現代でも重宝されているのだろう。縁側などなくても家の端に窓辺はあるから、もっぱら窓辺に倚る意味での使用例が多い。たとえば星野椿に「端居して窓一杯の山を見る」と、明確に窓辺で詠んだ句がある。星野椿は立子の娘(したがって、虚子の孫にあたる俳人)。すなわち、母の時代の「端居」は縁側で、娘の時代のそれは窓辺でというわけだ。時代は変わる。『笹目』(1950)所収。(清水哲男)


July 2872000

 にごり江を鎖す水泡や雲の峰

                           芝不器男

がった説に、「雲の峰」は陶淵明の詩句にある「夏雲多奇峯」に発したと言う。そんなことはないだろう。わざわざ外国人に教えられなくても、巨大な積乱雲を山の峯に見立てるなどは幼児にだってできる。教養の範疇に入る比喩じゃない。ときに学者は、おのれの教養に足下をすくわれる。掲句の「鎖す」は「とざす」、「水泡」は「みなわ」と読む。入江には流れてきた芥の類がたまっていて、腐乱物の発生するガスによる「水泡」がぶつぶつといくつも浮いている。茶色っぽくてきたならしい水の泡たち。見ているだけで暑苦しいが、空にはいくつもの「雲の峰」が立っており、その影をまた「にごり江」がうつしている。暑さも暑し、炎暑もここに極まったような情景だ。江戸期より「雲の峰」の作例には、積乱雲のエネルギーを讚える句が多いが、掲句は逆で、エネルギーに圧倒されている弱い心を詠んでいる。「にごり江」に、みずからの鬱屈した思いを投影しているのだろうか。でないと、わざわざ「にごり江」に見入ったりはしないだろう。地味な写生句だが、写生が写生を乗り越えていく力を感じさせられる一句だ。飴山實編『麦車』(1992)所収。(清水哲男)




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