倒産会社にいた。組合の書記長だった私に情報を求めて面会に来た下請けの人々の目が忘れられない。




2000ソスN7ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1472000

 蛇搏ちし棒が昨日も今日もある

                           北野平八

に遭遇して、そこらへんに立て掛けてあった棒切れを引っ掴み、夢中で搏(う)った。その棒が、昨日も今日も同じところに立て掛けられている。目にするたびに、蛇を搏った感触がよみがえってきて、嫌な気分がする。捨ててしまえばよいものを、捨てられないわけでもあるのだろう。私も、何度か蛇を搏った経験があるので、この句の生臭さはよくわかる。マムシとハブ以外の蛇は無毒だというが、ニワトリを飼っている農家にとっては天敵だった。こいつに侵入されたが最後、何個でも呑み込まれてしまう。大切な現金収入の道が、その分だけ断たれてしまうのだ。だから、搏った。しかし生活のためとはいえ、殺生は嫌なものだ。いつまでも感触が手に残り、いまでも思い出す。こうやって書いているだけで、背中をつめたいものが走る。掲句は、そういうことを一息で、しかも静かに控えめに書き留めていて、さすがだと思わせる。北野平八は、いつも小さな声で静かに詠み、それでいて深く胸底にひびくようなことを言った。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


July 1372000

 藺ざぶとん難しき字は拡大し

                           波多野爽波

は「い」と読み、「藺ざぶとん」は藺草(いぐさ)で織った夏用の座布団のこと。よく見かける座布団で、四角いものも丸いものもある。なるほど「藺」という字は難しい。何気なく尻に敷いている「藺ざぶとん」だが、ふと「藺」というややこしい漢字が気になったので、調べてみたのだろう。でも、辞書の文字が小さくて、よく見えない。早速、天眼鏡で拡大してみて、ははあんとうなずいている。最近は、いつもこうだ。だいぶ視力が衰えてきたなア。そんな思いを、深刻めかさずに詠んでいる。テーマが「藺ざぶとん」そのものにはなく、名前の一文字であるところから、とぼけた味わいが浮かんでくるのだ。多くの読者にとっては、どうでもよいようなことであり、もとより爽波もそんなことは承知の上で作っている。これぞ、人をクッた爽波流。そういえば辻征夫(俳号・貨物船)にも似たような才質があって、たとえば「つという雨ゆという雨ぽつりぽつり」であるが、上手いのか下手なのか、さっぱりわからない。でも、確実にとぼけた良い味は出せている。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


July 1272000

 暑き日を海に入れたり最上川

                           松尾芭蕉

上川の河口は酒田(山形県)だ。いましも、遠い水平線に真っ赤な太陽が沈もうとしている。その情景を「沈む」と抒情せず、最上川が太陽を押し「入れたり」と捉えたところに、芭蕉の真骨頂がある。最上川の豊かな水量とエネルギッシュな水流とが想像され、また押し「入れ」られてゆく太陽の力感も想起され、読者はその壮大なポエジーに圧倒される。初案は「涼しさや海に入たる最上川」だったという。このときに「入たる」を「いりたる」と読んでしまうとさして面白みはない句になるが、掲句と同様に「いれたる」と読めば、句はにわかに活気を帯びて動き出す。つまり、最上川が自分自身を悠々として海に「入れた」ということになり、情景は雄大なスケールのなかに浮き上がってくる。ただ、この情景が「涼しさ」に通じるかどうかについては、意見の分かれるところだろう。芭蕉としても地元への挨拶としての「涼しさ」(真夏というのに、当地は涼しくて良いところですね)の使用だったろうから、はじめから若干の無理は感じていたのかもしれない。捨てがたい味わいを持つが、やはり掲句の格が数段上である。(清水哲男)




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