マンションの集合ポストに掲示が出た。「ビラを入れる者は発見次第警察に連絡する」と。効果なし。




2000ソスN7ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0672000

 あつきものむかし大坂夏御陣

                           夏目漱石

りゃ、物凄く暑かったろう。なにせ、みんな戦(いくさ)支度だもの。大坂夏の陣は、1615年(元和元年)夏。徳川家康・秀忠の大軍の前に、豊臣秀頼(23歳)、淀君(48歳)が自刃して果て、豊臣家が息絶えた戦であった。夏の陣のことを思うとき、たいていの人は二人の悲劇に思いをめぐらすだろうが、漱石は「さぞや暑かったろうナと」涼しい顔をしている。シニカルなまなざし。ここらへんが、いかにも漱石らしい。ほとんど「ものはづけ」の雑俳の世界だが、このように同じ事態や事象を見るときに、大きくアングルを転換させる作法も俳句が培ってきたものだ。笑える句。面白い句。この国の近代文学が「喜怒哀楽」の感情のうちの「怒哀」に大きく傾斜していった(それなりの必然性はあったにせよ)なかで、俳句だけは「喜怒哀楽」すべてを詠みつづけてきた。いまでも、詠みつづけている。実にたいしたものだと私は思っていますが、いかがなものでしょうか。ところで、あなたにとって「あつきもの」とは何ですか。漱石以上に意表を突こうとすると、これがなかなか難しい。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


July 0572000

 生き得たる四十九年や胡瓜咲く

                           日野草城

語は「胡瓜(きゅうり)の花」。観賞するような立派な花じゃない。黄色くて、たいていは炎天下でしおたれている。そんな地味な花に目をとめて、生きている喜びを分かち合えたのは、草城が病弱だったからだ。このあたり、子規によく似ている。病床六尺の世界。「四十九年」は、もとより「人生わずか五十年」が意識にあってのこと。いまでこそ「人生八十年」と言っているが、「五十年」程度が常識だったのは、そんなに遠い昔の話でもない。戦争という特殊事情もあったにせよ、たしか敗戦の年の男の平均寿命は五十歳にも達していなかった。だから、作者はよくぞここまでの感慨をもって作句しているのだ。病弱ではない人でも、齢を重ねるに連れて、花は花でも、華麗でない花や名も知らぬ路傍の花に魅かれたりする。かくいう私も、そうなりつつあるようだ。稲垣足穂の名言に「齢を重ねるうちに、人の関心は動物から植物へ、植物から鉱物へと移行する」というのがある。となれば、地味な胡瓜の花への関心などは、さしずめ鉱物へのそれの移行過程を示すものかもしれない。だいぶ前に「アサヒグラフ」で、足穂の夕食の写真を見たことがある。テーブルの上には数本のビール瓶が並んでいるだけで、後は見事に何もなかった。ちょっとした「つまみ」すらもない。その前で、奥さんといっしよに、むうっとした表情の足穂が写っていた。完璧に「鉱物」の世界の人だなと思えた。『日野草城句集』(新潮文庫)所収。(清水哲男)


July 0472000

 夕涼や眼鏡をかけて菊の蟲

                           佐藤魚淵

語は「夕涼(ゆうすず)」。魚淵(なぶち)は信州一茶門。というよりも、友人格というところか。一茶よりも八歳年長で、一茶没後の六年間は一茶門の統領格であったという。涼しさの兆してきた夕方の庭に出て、菊の手入れをしている。いま読むと面白くも可笑しくもない句だが、眼目は「眼鏡」。眼鏡は貴重品だったから、金持ちにしか買えなかったはずだ。だから、当時の多くの読者はいちように「ほおっ」と羨望の念を覚えたにちがいない。「眼鏡頌」と題された前書がある。前書というよりも、眼鏡とは何かの「解説」に近い。以下、引用しておく。「眼がねといふ物、いつの代より始めけるにや。老てしばらくも此のものなからましかバ、盲の空をなでるが如く暗きよりくらきに迷ひなん。それさえ世々に工ミにたくみをかさねて、虱を大象程にみせ、牛を芥子粒ばかりに見するも渠が幻術なりけり。又近頃屏風のやうに紙にて蝶つがひといふを拵へて、畳で巾着におし込小とりまわしなど、佛もさたし申されざる調法になん有りける。此等みな末世に生れたる楽しミならずや」。実は、私も目が悪い。十年程前に両眼とも水晶体が自然に剥離してしまい、裸眼では焦点が結ばなくなった。特殊なコンタクトレンズでカバーしている。これが発明されてなかったら、表は歩けなかったろう。このページも作れなかった。だから、魚淵の喜びようは身にしみてわかる。『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)




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