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June 2262000

 毛虫の季節エレベーターに同性ばかり

                           岡本 眸

くわからないが、何となく気になる句がある。これも、その一つ。こうした偶然は、女性客の多いデパートのエレベーターなどで、結構起きているのだろう。「同性ばかり」とこだわっているからには、二、三人の同性客ではない。満員か、それに近い状態なのだ。それでなくとも、満員のエレベーターのなかは気詰まりなのに、同性ばかりだから無遠慮に身体や荷物を押し付けてくる女もいたにちがいない。なかには人の頭を飛び越して、傍若無人の大声でロクでもない会話をかわしている……。そこでふと、作者はいまが「毛虫の季節」であることを連想したということだろうか。着飾ってはいるとしても、蝶の優雅さにはほど遠い女たち。毛虫どもめと、一瞬、焼き殺したくなったかもしれない。おぞましや。句の字余りが、怒りと鬱陶しさを増幅している。こんなふうに読んでみたが、ここはやはり作者と同性の読者の「観賞」に待つべきだろう。エレベーターで思い出した。昭和の初期に出た「マナー読本」の類に「昇降機での礼儀心得」という項目があり、第一項は次のようであった。「昇降機に乗ったら、必ずドアのほうに向き直って直立すべし」。向き直らない人もいたようである。『朝』(1961)所収。(清水哲男)


June 0562008

 きんいろのフランス山の毛虫かな

                           星野麥丘人

から毛虫は嫌われ者だ。小学校の頃、葉桜の下で鬼ごっこをして教室へ帰ってきたら回りにいた友達が突然きゃーきゃー騒ぎだした。真っ黒な毛虫が私の肩にひっついていたのだけど遠巻きに騒ぐだけで誰もとってくれない。その思い出があるから今も葉桜の下を通るときには首をすくめて足早に通る。なぜかその毛虫がこの句ではすてきに思える。夕焼けを浴びてきんいろに光っている毛虫はおとぎ話の主人公のように何か別のものに変身しそうだ。インターネットで調べるとフランス山は横浜港を一望できる「港の見える丘公園」の北側部分を指すらしいが、それを知らなくとも「フランス山」という名前からは童話的世界の広がりが感じられる。夕暮れ時の山の中でたまたま眼にした毛虫が夕日を浴びてきんいろに光っていただけかもしれないが、読み手の私には嫌いだった毛虫に別の表情が加わったように思う。『亭午』(2002)所収。(三宅やよい)


May 1652009

 白菖蒲みにくき蝶のはなれざる

                           竹内留村

菖蒲とあるので、いわゆる花菖蒲。もう咲き始めている。花菖蒲の紫は色濃く、大和紫とでもいいたくなるようなしっとりとした風合いだが、そこに混ざって咲く白は、初夏の日差しを受けてひときわまぶしい。まっすぐな葉と茎の上に、ゆるやかな花がひらひら咲く姿、それ自身が蝶のようにも見えるが、そこに白い蝶が見え隠れしている。みにくい芋虫から美しい蝶になったはずが、みにくき蝶とは気の毒だが、同じ白でも動物と植物、かたや体液が通い、かたや水が通っている。強くなってきた日差しと風に、少し疲れた蝶。明日には、菖蒲田の水にその姿を沈めるかもしれない。そんな蝶に、どことなく愛着も感じているのだろう。ひらがなの中の、白菖蒲と蝶、ふたつの白が交錯してゆれている。句集には、〈毛を風に吹かせて毛虫涼しげに〉という句もありこちらは、あまり好かれることがなく句の中ではたいてい焼かれている毛虫が気持ちよさそうで、なんだかうれしくなる。『柳緑花紅』(1996)所収。(今井肖子)


June 0962009

 かうしてはをれぬ毛虫が食べつくす

                           林 菊枝

年前、チャドクガの毛虫に刺されてひどい目にあった。葉の裏にびっしりと群れる様子は、毛羽立った布の切れ端が貼り付いているようにも見える。一斉にうごめきながら、端からどんどん葉が消えていく食べっぷりを思えば、掲句の通り「こうしてはおれぬ」と居ても立ってもいられぬ気分になるものだ。頭のなかには、みるみる丸裸にされていく愛すべき木の姿がイメージされる。毛虫の極彩の色彩は、天敵の鳥に対しての警告色だというが、目立つことで捕食されないというのも、なにやら攻撃的な生き方である。残酷だと思っていた毛虫の時期に登場する「毛虫焼く」の傍題にも、日頃の偉大なる自然への敬意をあっさり返上して、「もはや、それしかないでしょう」と頷いている。と、こう書いているだけで、なんだか全身むず痒くなってきた。〈綿虫のどれにも焦点が合はぬ〉〈考えてみたし栄螺の展開図〉作者は昭和2年生まれ。羨望の柔軟性である。『草のティアラ』(2009)所収。(土肥あき子)


June 1062010

 おまへまで茹でてしまうたなめくぢり

                           西野文代

年の5月に西野文代さんが八十七回目の誕生日を迎えられた。それを記念して「爽波を読む会」に集まった仲間たちの鑑賞文を集めた『なはとびに』が上梓された。一読、作品の魅力を引きだす鑑賞の面白さと同時に選び出されている西野さんの俳句のおおらかさ、自在さに魅了された。掲句は青菜の裏についていたなめくじが、ぷかっとお湯に浮かびあがってきたのだろうか。「おまへまで」の「まで」に野菜を茹でるにも、はい食べさせてもらいますよ、熱いけどごめんなさいよ。と言った心持ちであり、それに加えて何も知らないで青菜を食べていたおまえまで茹でてしまうた、罪なことをしたなぁと語りかけているすまなさが感じられた。そんな作者の優しい気持ちが文語表記の柔らかさに生かされている。森羅万象、動物や虫たちのいのちと同等に付き合えるようになり、その気持ちがそのまま俳句になるには俳人としての修練以上に人としての年季が必要なのだろう。なめくじを見つけたら塩をかけて喜んでいる自分なんぞは到底その境地に至れそうにない。「なんぢ毛虫雨粒まみれ砂まみれ」「へちまぞなもし夜濯の頭に触れて」『なはとびに』(2010)所収。(三宅やよい)


May 2352013

 鏡なすまひる石階をゆく毛虫

                           金尾梅の門

桜のころは毛虫が多くて、おちおち桜の木の下で遊べなかった。あの黒くもにゃもにゃした毛虫は今でも桜を食い荒らしているのだろうか。都会では桜並木の下でもあまり毛虫を見ないように思う。掲句、鏡なす昼の光に石段の照り返しが眩しい。何もかも動きを止めたような昼下がり、全身をくねらせながら石段を這ってゆく毛虫にふと目をとめたまま視線がはずせなくなったのだろう。もどかしいぐらいゆっくりした毛虫の動きが時間の長さを読み手に感じさせる。金尾梅の門(かなおうめのかど)古風な俳号を持つこの俳人は大須賀乙字に学んだ富山生まれの俳人だそうだ。『現代俳句全集』(1958)所載。(三宅やよい)




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