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June 1762000

 虚を衝かれしは首すじの日焼かな

                           飯島晴子

語は「日焼」。誰かに指摘されたのか、あるいは鏡のなかで発見したのか。女性の場合、顔や手足の強い日焼けはケアが大変だ(ろう)。だから、いつも格別に用心しているわけだが、「首すじ」の日焼けとは、たしかに「虚を衝(つ)かれ」た感じになるだろう。「首すじ」も露出しているのだから、理屈では日焼けして当然なのだが、気分的にはギョッとする。顔や腕などに比べると、日頃はほとんど意識の埒外にあるからだ。このとき「虚を衝かれ」たのは作者だが、それを句にしたことで、今度は作者が読者の虚を衝く番となった。転んでもタダでは起きぬしたたかさ。と言っても、失礼にはあたるまい。とにかく、飯島さんは読者を「あっ」と驚かす名人だった。何度読んでも、私などは「あっ」の連続で、たっぷりと楽しませていただいてきた。訃報に接したときに、すぐに思い出したのは、飯島さんの競馬好きのことだ。詳細は省略するが、飯島さんからいただいた最初のお便りには、俳句とは直接何の関係もない「競馬」のことが書かれていて、「私の競馬好きを知る人は、ほとんどいませんが……」と、イタズラっぽく結んであった。読んだ私は、もちろん「あっ」と虚を衝かれた。『儚々』(1996)所収。(清水哲男)


July 2672000

 今生の汗が消えゆくお母さん

                           古賀まり子

の死にゆく様子を「今生の汗が消えゆく」ととらえた感覚には、鬼気迫るものがある。鍛練を重ねた俳人ならではの「業(ごう)」のようなものすらを感じさせられた。生理的物理的には当たり前の現象ではあるが、血を分けた母親の臨終に際して、誰もがこのように詠めるものではないだろう。この毅然とした客観性があるからこそ、下五の「お母さん」という肉声に万感の思いが籠もる。表面的な句のかたちに乱れはないけれど、内実的には大いなる破調を抱え込んだ句だ。作者には「紅梅や病臥に果つる二十代」に見られる若き日の長い闘病体験があり、また「日焼まだ残りて若き人夫死す」がある。みずからの死と隣り合わせ、また他人の死に近かった生活のなかでの俳句修業(秋桜子門)。掲句は、その積み上げの頂点に立っている。この場合に「鋭く」と言うのが失礼だとしたら、「哀しくも」立っている……。「お母さん」の呼びかけが、これほどまでに悲痛に響く俳句を、少なくとも私は他に知らない。「汗」という平凡な季語を、このように人の死と結びつけた例も。『竪琴』(1981)所収。(清水哲男)




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