春の蔵でからすのはんこ押してゐる」。飯島晴子さんが亡くなりました。ショックです。残念です。




2000ソスN6ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0962000

 亡き母の石臼の音麦こがし

                           石田波郷

かけなくなりましたね、麦こがし。新麦を炒って石臼などで引き、粉にしただけの素朴な食べ物。砂糖を入れてそのままで食べたり、湯や冷水にといて食べたりします。東京では「麦こがし」、関西では「はったい」と言うようですが、我が故郷の山口では「はったいこ(粉)」と呼んでいました。地方によっては「麦焦(むぎいり)」「麦香煎(むぎこうせん)」とも。「はったい」命名の由来には諸説あり、「初田饗(はつたあえ)」から来たといううがった見方もあるとのこと。ところで私にもイヤというほどの経験がありますが、麦や豆を石臼で引く仕事は、単調で退屈でした。それに、あのゴロゴロという低音が眠気を誘います。女子供か年寄が、この季節になるとどこの家でもゴロゴロやっていたのを思い出します。作者は、亡き母を生活の音とともに偲んでいます。そこが、句の眼目でしょう。でも、こうした偲び方は、これからどんどん薄れていくのでしょうね。第一、電子レンジのチンでは情緒もへったくれもあったものではありませんし……。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 0862000

 三十年前に青蚊帳畳み了えき

                           池田澄子

すがの着眼。機知に富んでいて、しかもあざとくない。いつもながらセンスのよい俳人だ。そう言えば、蚊帳を吊らなくなって何年くらいになるだろう。句のように、間違いなく三十年は吊っていない。住環境によるわけだが、現在も蚊帳の必要なお宅は、この国にどのくらいあるのだろうか。ついでに、値段も知りたくなる。ところで、柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)に面白い蚊帳の句あり。「蚊屋釣りていれゝば吼る小猫かな」(宇白)。蚊帳に入れてやったら、小猫が吼(ほ)えたというのである。まさか猫が吼えるわけもあるまいが、異常に興奮した様子を詠んだようだ。吼えたのは元禄の小猫だからではなく、吉村冬彦(寺田寅彦)の随想にも出てくると宵曲が紹介している。「どういうものか蚊帳を見ると奇態に興奮するのであった。殊に内に人がいて自分が外にいる場合にそれが著しかった。背を高く聳やかし耳を伏せて恐ろしい相好をする。そして命掛けのような勢で飛びかかってくる。……」。蚊帳には、猫を挑発する魔力でもあるのだろうか。もっとも、いまでは人間の子供だって吼えるかもしれないけれど(笑)。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


June 0762000

 池の鯰逃げたる先で遊びけり

                           永田耕衣

からない。と思えば、何もわからない句。客観写生句ではないからだ。でも、かと言って何かの事象の象徴句でもないし抽象句でもない。作者としては、ありのままに文字通りに、具象句として読んで欲しいのだと思う。他ならぬ私がそうなのだが、私たちはちょっと「わからない」句に出会うと、すぐに解釈したがってしまう。とにかく、理屈で解き明かそうとする。まるで病気のように、「わからない」自分が許せないのだ。だから、それこそ句を「遊べ」ない。耕衣句の多くは、そんな現代病をからかっているようにすら写る。鯰(なまず)が「逃げたる先」で、逃げたこともすっかり忘れちゃって、あっけらかんと遊んでいる。ただ、それだけのこと。いつまでもじくじくと過去にこだわらない(正確に言えば、こだわれない)鯰のありようを、作者は素朴に「いいな」と思い、その思いをそのまま読者に手渡してくれている。句に禅味があるのかどうかは知らないが、近ごろの私などには羨望に値する世界と写る。心弱き日に思い出すと、元気が出てきそうな一句だ。おっと、いけない。またぞろ悪い病気が顔を出しかけてきた……(笑)。『自選永田耕衣句集』(1980)所収。(清水哲男)




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