半分読んだところ(450枚もある)ですが、杉山正樹「寺山修司・遊戯の人」(新潮7月号)は面白い。




2000ソスN6ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0862000

 三十年前に青蚊帳畳み了えき

                           池田澄子

すがの着眼。機知に富んでいて、しかもあざとくない。いつもながらセンスのよい俳人だ。そう言えば、蚊帳を吊らなくなって何年くらいになるだろう。句のように、間違いなく三十年は吊っていない。住環境によるわけだが、現在も蚊帳の必要なお宅は、この国にどのくらいあるのだろうか。ついでに、値段も知りたくなる。ところで、柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)に面白い蚊帳の句あり。「蚊屋釣りていれゝば吼る小猫かな」(宇白)。蚊帳に入れてやったら、小猫が吼(ほ)えたというのである。まさか猫が吼えるわけもあるまいが、異常に興奮した様子を詠んだようだ。吼えたのは元禄の小猫だからではなく、吉村冬彦(寺田寅彦)の随想にも出てくると宵曲が紹介している。「どういうものか蚊帳を見ると奇態に興奮するのであった。殊に内に人がいて自分が外にいる場合にそれが著しかった。背を高く聳やかし耳を伏せて恐ろしい相好をする。そして命掛けのような勢で飛びかかってくる。……」。蚊帳には、猫を挑発する魔力でもあるのだろうか。もっとも、いまでは人間の子供だって吼えるかもしれないけれど(笑)。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


June 0762000

 池の鯰逃げたる先で遊びけり

                           永田耕衣

からない。と思えば、何もわからない句。客観写生句ではないからだ。でも、かと言って何かの事象の象徴句でもないし抽象句でもない。作者としては、ありのままに文字通りに、具象句として読んで欲しいのだと思う。他ならぬ私がそうなのだが、私たちはちょっと「わからない」句に出会うと、すぐに解釈したがってしまう。とにかく、理屈で解き明かそうとする。まるで病気のように、「わからない」自分が許せないのだ。だから、それこそ句を「遊べ」ない。耕衣句の多くは、そんな現代病をからかっているようにすら写る。鯰(なまず)が「逃げたる先」で、逃げたこともすっかり忘れちゃって、あっけらかんと遊んでいる。ただ、それだけのこと。いつまでもじくじくと過去にこだわらない(正確に言えば、こだわれない)鯰のありようを、作者は素朴に「いいな」と思い、その思いをそのまま読者に手渡してくれている。句に禅味があるのかどうかは知らないが、近ごろの私などには羨望に値する世界と写る。心弱き日に思い出すと、元気が出てきそうな一句だ。おっと、いけない。またぞろ悪い病気が顔を出しかけてきた……(笑)。『自選永田耕衣句集』(1980)所収。(清水哲男)


June 0662000

 白服にてゆるく橋越す思春期らし

                           金子兜太

葉仁に「若きらの白服北大練習船」がある。白服の若者たちはいかにも清々しく、力強く、そして軽快だ。ところが、掲句の少年(少女)は反対に、のろのろと重い足取りで橋を渡っている。作者との位置関係だが、同じ橋を渡っているのではないだろう。たぶん作者は橋を見上げる河辺の道にいて、気だるそうな少年(少女)の歩行が気になっているのだと思われる。橋上に、他の人影はない。じりじりと照りつける太陽。そこで作者は、その鈍重な歩みの原因を、「思春期」の悩みゆえと見てとった。もとより客観的な根拠などないわけだが、とっさに作者の心は、みずからの「思春期」のころに飛んでいったのである。その意味で、句は自分自身の過去を詠んだ歌とも言え、それゆえに橋上の若者に注ぐまなざしは慈しみに近い愛情に満ちている。辛いだろうが、乗り越えるんだよ……。なあに、君だったら、すぐに克服できるさ……。そんな慈眼が働いている。白服を歌って、異色の作品。しかも、何の衒いもないところに、作者の人柄がよくにじみ出ている。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)




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