「選手をかばえるのは監督しかいないんです」(日ハム・大島監督)。珍しく仁義をわきまえた男だ。




2000ソスN6ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0762000

 池の鯰逃げたる先で遊びけり

                           永田耕衣

からない。と思えば、何もわからない句。客観写生句ではないからだ。でも、かと言って何かの事象の象徴句でもないし抽象句でもない。作者としては、ありのままに文字通りに、具象句として読んで欲しいのだと思う。他ならぬ私がそうなのだが、私たちはちょっと「わからない」句に出会うと、すぐに解釈したがってしまう。とにかく、理屈で解き明かそうとする。まるで病気のように、「わからない」自分が許せないのだ。だから、それこそ句を「遊べ」ない。耕衣句の多くは、そんな現代病をからかっているようにすら写る。鯰(なまず)が「逃げたる先」で、逃げたこともすっかり忘れちゃって、あっけらかんと遊んでいる。ただ、それだけのこと。いつまでもじくじくと過去にこだわらない(正確に言えば、こだわれない)鯰のありようを、作者は素朴に「いいな」と思い、その思いをそのまま読者に手渡してくれている。句に禅味があるのかどうかは知らないが、近ごろの私などには羨望に値する世界と写る。心弱き日に思い出すと、元気が出てきそうな一句だ。おっと、いけない。またぞろ悪い病気が顔を出しかけてきた……(笑)。『自選永田耕衣句集』(1980)所収。(清水哲男)


June 0662000

 白服にてゆるく橋越す思春期らし

                           金子兜太

葉仁に「若きらの白服北大練習船」がある。白服の若者たちはいかにも清々しく、力強く、そして軽快だ。ところが、掲句の少年(少女)は反対に、のろのろと重い足取りで橋を渡っている。作者との位置関係だが、同じ橋を渡っているのではないだろう。たぶん作者は橋を見上げる河辺の道にいて、気だるそうな少年(少女)の歩行が気になっているのだと思われる。橋上に、他の人影はない。じりじりと照りつける太陽。そこで作者は、その鈍重な歩みの原因を、「思春期」の悩みゆえと見てとった。もとより客観的な根拠などないわけだが、とっさに作者の心は、みずからの「思春期」のころに飛んでいったのである。その意味で、句は自分自身の過去を詠んだ歌とも言え、それゆえに橋上の若者に注ぐまなざしは慈しみに近い愛情に満ちている。辛いだろうが、乗り越えるんだよ……。なあに、君だったら、すぐに克服できるさ……。そんな慈眼が働いている。白服を歌って、異色の作品。しかも、何の衒いもないところに、作者の人柄がよくにじみ出ている。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)


June 0562000

 葛切やすこし剩りし旅の刻

                           草間時彦

車が出る時刻までには、まだ少し時間が剰(あま)っている。そこで小休止も兼ねて、駅近くの茶店で名物の葛切(くずきり)を賞味している。口あたりのよい葛切と旅心がマッチした粋な一刻。誰しも覚えがあるように、旅先ではこのように、ちょこちょこと時間があまってしまう。この少しあまった時間をどう使うのかも、旅を楽しむ重要なポイントだろう。土産を買いに走り回っている人、待合室で所在なげに新聞を読んでいる人。さらには私のように、どこにでもある雑誌を本屋で漫然と立ち読みする人など……。そんな時間に、旅の名人だと句のように、ちゃんとその土地ならではのものを味わっていたりするのだから敵わない。そのことが身にしみてわかるのは、帰りの列車の中だ。いままで旅してきたところの印象を語り合っているうちに、私が気がつきもしなかった数々の見聞や体験話が披露されてきて、いつも打ちひしがれる思いになる。同じように動いていても、同行のそれぞれが吸収したものは大きく違っているというわけだ。ことさらに教訓めかすつもりはないけれど、このことはおそらく、人生という旅にも当てはまりそうである。『夜咄』(1986)所収。(清水哲男)




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