あいにくの天気でしたが、心眼で眺めた岩手山は堂々たる風格でした。空気もおいしく雨もまたよし。




2000ソスN5ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2952000

 あきなひや蝿取リボン蝿を待つ

                           ねじめ正也

息のねじめ正一さんが有名にした「ねじめ民芸店」以前に、作者は高円寺(東京・杉並)で、乾物屋を営んでいた。私は二十代の頃、その店の前を通って出勤していたので、たたずまいもよく知っている。普通の店構えではあったが、乾物に加えて渋団扇などが並べられていたのが、ちょっと変わっていた。一度だけ、気まぐれに大きな赤い団扇を買ったことがあったっけ。乾物屋だから、夏ともなると昔(ちなみに1953年の作)は当然のことに蝿どもが群がってくる。防衛策としては、とりあえず蝿取リボンを何本も吊るすしかないわけだ。で、吊るし終えて店に座り込み、出てきた言葉が「あきなひや」であった。この呼吸が面白い。と言うか、商人でなければ発さない嘆息が、自然にぽっと吐かれている無技巧に感心してしまう。すなわち、蝿取リボンが蝿を待つように、自分もまた客を「待つ」しかない存在であるなアと、思わずも吐いてしまっているところ。「あきなひや」には、いささかの自嘲も含まれているとも読めるけれど、その前に、ふっと蝿取リボンと自分の姿を重ねてしまった驚きが感じられる。一瞬の後に、態勢を立て直してしかめっ面を取り戻しているところに、句の妙味がある。季語は「蝿取」で夏。もはや死語になっている。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


May 2852000

 されど雨されど暗緑 竹に降る

                           大井恒行

季句。この句については、十五年前の初出句集に寄せた拙文があるので、そのまま書き写しておきたい。いささかキザですが……。「この鮮烈なイメージは、そのまま私の少年時代につながってしまう。竹薮を控えた山の中の粗末な家。裏山で脱皮をつづける竹の音を聞きながら、私はあらぬことばかりを考えていたようだ。雨が来ると、はたして妄想は募ったのである。そしてその妄想は、暗い緑のなかでつめたく逆上するのが常であった。不健康というにはあたるまい。むしろ妄想は、少年において健康の証ではないのか。妄想の力を伸ばしきったところに、見えていたもの。もはや少年でなくなった者は、かつてそうして見えていたものの、いわば貯金の利子をあやつって、質素に散文の世を生きていくしかないのだと恩う。晴れた目に、精神のバランスを取る。その秤を手に入れたのは少年の日であったことを、むろん大井恒行も承知している」。このページの読者にわからないのは「晴れた目に、精神のバランスを取る」の部分だろうが、拙文の前段で、句は雨降りの日にではなく、逆に「晴天」のもとで書かれたのではないか。「鏡の裏に、ひとは詩を発見するものであるらしい」と、そんな私の推測を受けた文章である。『風の銀漢』(1985)所収。(清水哲男)


May 2752000

 たぶんもう来ないとおもふ馬刀がゐる

                           西野文代

刀(まて)は「馬蛤貝(まてがい)」あるいは「馬刀貝」で春の季語。もう、旬は過ぎているだろう。アンチョコによれば「マテガイ科の横長筒状の二枚貝。殻長は十二センチほど。美味」とある。干潟の生息穴に塩を入れると、反射的に飛び出してくるというから、面白い動きをする貝である。正岡子規に「面白や馬刀の居る穴居らぬ穴」がある。あまり海には出かけないので、見たことがあるようなないような……。アレがそうだったのだろうかとも思うが、自信なし。句を採り上げたのは、「たぶんもう来ないとおもふ」という発想に魅かれたからだ。旅に出て、自然にこう思うようになるには、それなりの年齢が必要だ。若い頃には、皆無に近い思いだろう。それがいつしか、どこに出かけてもこんな気持ちになる。その気持ちを、元気で剽軽な動きの馬刀に結びつけたところが句の魅力だ。「何をそんなに感傷的になってるの」。このときの馬刀は、そんな顔(?!)をしている。今日の私は、一年に一度の旅行に出かける。職業柄ウィークデーの休暇はとりにくく、たった一泊しかできないけれど、楽しみだ。きっと、先々で「たぶんもう来ないとおもふ」のだろう。「俳句界」(2000年6月号)所載。(清水哲男)




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