巨人で誰が知的か。一にガルベス、二に工藤、三に桑田だと草森紳一が「現代詩手帖」に書いている。




2000ソスN5ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2852000

 されど雨されど暗緑 竹に降る

                           大井恒行

季句。この句については、十五年前の初出句集に寄せた拙文があるので、そのまま書き写しておきたい。いささかキザですが……。「この鮮烈なイメージは、そのまま私の少年時代につながってしまう。竹薮を控えた山の中の粗末な家。裏山で脱皮をつづける竹の音を聞きながら、私はあらぬことばかりを考えていたようだ。雨が来ると、はたして妄想は募ったのである。そしてその妄想は、暗い緑のなかでつめたく逆上するのが常であった。不健康というにはあたるまい。むしろ妄想は、少年において健康の証ではないのか。妄想の力を伸ばしきったところに、見えていたもの。もはや少年でなくなった者は、かつてそうして見えていたものの、いわば貯金の利子をあやつって、質素に散文の世を生きていくしかないのだと恩う。晴れた目に、精神のバランスを取る。その秤を手に入れたのは少年の日であったことを、むろん大井恒行も承知している」。このページの読者にわからないのは「晴れた目に、精神のバランスを取る」の部分だろうが、拙文の前段で、句は雨降りの日にではなく、逆に「晴天」のもとで書かれたのではないか。「鏡の裏に、ひとは詩を発見するものであるらしい」と、そんな私の推測を受けた文章である。『風の銀漢』(1985)所収。(清水哲男)


May 2752000

 たぶんもう来ないとおもふ馬刀がゐる

                           西野文代

刀(まて)は「馬蛤貝(まてがい)」あるいは「馬刀貝」で春の季語。もう、旬は過ぎているだろう。アンチョコによれば「マテガイ科の横長筒状の二枚貝。殻長は十二センチほど。美味」とある。干潟の生息穴に塩を入れると、反射的に飛び出してくるというから、面白い動きをする貝である。正岡子規に「面白や馬刀の居る穴居らぬ穴」がある。あまり海には出かけないので、見たことがあるようなないような……。アレがそうだったのだろうかとも思うが、自信なし。句を採り上げたのは、「たぶんもう来ないとおもふ」という発想に魅かれたからだ。旅に出て、自然にこう思うようになるには、それなりの年齢が必要だ。若い頃には、皆無に近い思いだろう。それがいつしか、どこに出かけてもこんな気持ちになる。その気持ちを、元気で剽軽な動きの馬刀に結びつけたところが句の魅力だ。「何をそんなに感傷的になってるの」。このときの馬刀は、そんな顔(?!)をしている。今日の私は、一年に一度の旅行に出かける。職業柄ウィークデーの休暇はとりにくく、たった一泊しかできないけれど、楽しみだ。きっと、先々で「たぶんもう来ないとおもふ」のだろう。「俳句界」(2000年6月号)所載。(清水哲男)


May 2652000

 麦秋や自転車こぎて宣教師

                           永井芙美

の熟した畑が、四方にどこまでも広がっている。そのなかの道を、黒衣の宣教師が自転車でさっそうと行きすぎてゆく。薫風が肌に心地よい季節の情景を、いっそう気持ちよくとらえた句だ。ただし、読者がちょっと立ち止まるところがあるとすれば、「麦」と「宣教師」との取り合わせだろう。「一と本の青麦若し死なずんばてふ語かなし」(中村草田男)というキリスト教との関連だ。が、私はそこまでは踏み込まないでよいように思う。軽やかな宣教師の自転車姿が、麦秋の景観を引き立てている。そう、素朴に読んでおきたい。それよりも面白いのは、聖職者と乗り物との取り合わせに、なぜ私たちは着目するのかという点だろう。昔からなぜか、聖職に携わる人(この国では「教師」なども含まれる)には歩くイメージが固着している。乗る姿に違和感のないのは、聖職者が自分で運転しない自動車に乗っている時であるとか……。とにかく聖職者が自力で乗り物を動かすことに、庶民は違和感を感じてきたようだ。自分で乗り物をあやつる行為には、反聖的な軽薄さにつながるという認識でもあるのだろうか。馬車の時代の階級差への認識が、いまだに感覚として残っているのか。スクーターに乗った僧侶とすれ違うだけで、内心「ほおっ」と思ってしまうのは、私だけではないだろう。『福音歳時記』(1993・ふらんす堂)所載。(清水哲男)




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