では皆さま、盛岡方面へ出かけてきます。なあんて、世界中に挨拶するようなことでもないですね。




2000ソスN5ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2752000

 たぶんもう来ないとおもふ馬刀がゐる

                           西野文代

刀(まて)は「馬蛤貝(まてがい)」あるいは「馬刀貝」で春の季語。もう、旬は過ぎているだろう。アンチョコによれば「マテガイ科の横長筒状の二枚貝。殻長は十二センチほど。美味」とある。干潟の生息穴に塩を入れると、反射的に飛び出してくるというから、面白い動きをする貝である。正岡子規に「面白や馬刀の居る穴居らぬ穴」がある。あまり海には出かけないので、見たことがあるようなないような……。アレがそうだったのだろうかとも思うが、自信なし。句を採り上げたのは、「たぶんもう来ないとおもふ」という発想に魅かれたからだ。旅に出て、自然にこう思うようになるには、それなりの年齢が必要だ。若い頃には、皆無に近い思いだろう。それがいつしか、どこに出かけてもこんな気持ちになる。その気持ちを、元気で剽軽な動きの馬刀に結びつけたところが句の魅力だ。「何をそんなに感傷的になってるの」。このときの馬刀は、そんな顔(?!)をしている。今日の私は、一年に一度の旅行に出かける。職業柄ウィークデーの休暇はとりにくく、たった一泊しかできないけれど、楽しみだ。きっと、先々で「たぶんもう来ないとおもふ」のだろう。「俳句界」(2000年6月号)所載。(清水哲男)


May 2652000

 麦秋や自転車こぎて宣教師

                           永井芙美

の熟した畑が、四方にどこまでも広がっている。そのなかの道を、黒衣の宣教師が自転車でさっそうと行きすぎてゆく。薫風が肌に心地よい季節の情景を、いっそう気持ちよくとらえた句だ。ただし、読者がちょっと立ち止まるところがあるとすれば、「麦」と「宣教師」との取り合わせだろう。「一と本の青麦若し死なずんばてふ語かなし」(中村草田男)というキリスト教との関連だ。が、私はそこまでは踏み込まないでよいように思う。軽やかな宣教師の自転車姿が、麦秋の景観を引き立てている。そう、素朴に読んでおきたい。それよりも面白いのは、聖職者と乗り物との取り合わせに、なぜ私たちは着目するのかという点だろう。昔からなぜか、聖職に携わる人(この国では「教師」なども含まれる)には歩くイメージが固着している。乗る姿に違和感のないのは、聖職者が自分で運転しない自動車に乗っている時であるとか……。とにかく聖職者が自力で乗り物を動かすことに、庶民は違和感を感じてきたようだ。自分で乗り物をあやつる行為には、反聖的な軽薄さにつながるという認識でもあるのだろうか。馬車の時代の階級差への認識が、いまだに感覚として残っているのか。スクーターに乗った僧侶とすれ違うだけで、内心「ほおっ」と思ってしまうのは、私だけではないだろう。『福音歳時記』(1993・ふらんす堂)所載。(清水哲男)


May 2552000

 蛙遠く跫音もせず暮る二階

                           芹田鳳車

語は「遠蛙」で春だが、初夏の景としても十分に通用する。でも、この人は元来が自由律俳句の荻原井泉水門だから、季語的分類に固執してもさして意味はないだろう。句意は明瞭だ。まことに森閑たる夕暮れの雰囲気が活写されている。鳳車(ほうしゃ)の代表作に、第一句集のタイトルともなった「草に寝れば空流る雲の音聞こゆ」があるが、これまた極めて静謐な情景だ。このように、鳳車句の特徴は静かな境地にある。心身を沈め澄ませて、感じられる感興を詠むのである。この場合で言うと、二階にいる家人の跫音(あしおと)にことさらに耳をそばだてているのではなく、みずからの静かな心身状態が自然に(ひとりでに)とらえた結果の気配なのだ。がつがつと素材を探し回るようなことはしていない。「雲の音」句についても、同様である。私たちが俳句の魅力にとらわれる一つの要因は、このように自分の心身を静かに保ち、そこに浮かび上がってくる何かを詠む充実感にあるのだろう。日常生活のあれやこれやを一切遮断して、心を澄ませてみたときに何が見え、何が聞こえるか。そうしたいわば自己発見の妙味に、多くの人が魅入られてきた。その典型を、私などはこの人に見る。『雲の音』所収。(清水哲男)




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