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2000ソスN5ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2452000

 バスの棚の夏帽のよく落ること

                           高浜虚子

前の男は、実によく帽子をかぶった。北原白秋の「青いソフトに降る雪は……」という小粋な詩を持ち出すまでもなく、寒い季節の「ソフト帽」はごく当たり前のことだったし、夏の「カンカン帽」や高級な「パナマ帽」など、いまの若い人にも古い写真や映画などではおなじみのはずである。句は六十年も前に、虚子が佐渡に遊んだときのスケッチだ。季節は五月。舗装などされていない島の凸凹道を走っているのだから、バスが飛び上がるたびに、網棚に置いた帽子が転がり落ちてくる。「しようがないなア」と、苦笑しつつ帽子を網棚に戻している。戻したと思ったら、また落ちてくる。で、また戻す。もちろん、他の人の帽子も。道中、この繰り返しだ。「それがどうしたの。たいした句じゃないね」。いまの読者の多くは、おそらくそう思うだろう。理由は、やはり現代人に帽子を愛用する習慣がないからである(いま若者に流行している野球帽みたいな「キャップ」とは、帽子の格が違う)。「不易流行」の「不易」も「流行」も、帽子的にはもはや喪失してしまっている。私もそんなによい句とは思わないが、あえて持ち出してみたのは、昔の句を観賞する難しさが、こんなに易しい句にもあると言いたかったので……。易しさは、おおかたの俳句の命。その命が伝わらなくなるのは悲しいことだが、しかしこのこともまた、俳句の命というものではあるまいか。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


May 2352000

 恋文の起承転転さくらんぼ

                           池田澄子

分に宛てられた恋文を読んでいるのか、それとも、文豪などが残した手紙を読んでいるのか。いずれでも、よいだろう。言われてみれば、なるほど恋文には、普通の手紙のようにはきちんとした「起承転結」がない。とりとめがない。要するに、恋文には用件がないからだ。なかには用事にかこつけて書いたりする場合もあるだろうが、かこつけているだけに、余計に不自然になってしまう。したがって「起承転結」ではなく「起承転転」という次第。さながら「さくらんぼ」のように転転としてとりとめもないのだが、しかし、そこにこそ恋文の恋文たる所以があるのだろう。微笑や苦笑や、はたまた困惑や喜びをもたらす恋文の構造を分析してみれば、その本質は「起承転転」に極まってくる。「さくらんぼ」を口にしながら、このとき作者はおだやかな微笑を浮かべているにちがいない。同じ作者に「恋文のようにも読めて手暗がり」がある。「さくらんぼ」の転転どころではない「起承転転」もなはだしい手紙なのだ。もちろん、作者は大いに困惑している。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


May 2252000

 たべ飽きてとんとん歩く鴉の子

                           高野素十

素十肖像
語は「鴉(カラス)の子」で夏。スズメやツバメの子の姿は親しいが、カラスの子は見たことがない。素十は写生に徹底した俳人だから、描写は正確無比のはず。カラスの子は、きっとこのようにあどけなくて可愛らしいのだろう。「とんとん」歩く姿を、一度は見てみたい。いまや都会の天敵視されているカラスも、「烏といっしょに かえりましょう」と一年生の教科書の『夕焼け小焼け』で歌われ、『七つの子』という童謡もあるほどに昔は愛すべき存在だった。それが、現在はこんな御触れ書きが出されるまでに、不幸な関係に入ってしまった。以下、近隣自治体の「お知らせ」より抜粋。「ヒナが育つこれからの時期は更に攻撃性は強まります。カラスは、捕ったり殺したりできませんので、被害を減らすためには、巣を撤去し、数を制限することが効果的な方法となります。巣の撤去は、全て樹木などの所有者の責任で行うことになっています。また、巣の中に卵やヒナがいる場合には、特別な許可が必要となります。……巣がある場合は、造園業者などに依頼して、早い時期に撤去するよう御願いします」。カラスにたまたま巣をかけられた樹木の所有者や管理者は、自分の責任で(つまり、自腹を切って)撤去すべしということ。知らなかった。気になるのは「特別な許可」の中身ですね。やがて「とんとん」歩きだす子ガラスの命を尊重するための、せめてもの法的配慮なのでしょうか。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)




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