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May 2352000

 恋文の起承転転さくらんぼ

                           池田澄子

分に宛てられた恋文を読んでいるのか、それとも、文豪などが残した手紙を読んでいるのか。いずれでも、よいだろう。言われてみれば、なるほど恋文には、普通の手紙のようにはきちんとした「起承転結」がない。とりとめがない。要するに、恋文には用件がないからだ。なかには用事にかこつけて書いたりする場合もあるだろうが、かこつけているだけに、余計に不自然になってしまう。したがって「起承転結」ではなく「起承転転」という次第。さながら「さくらんぼ」のように転転としてとりとめもないのだが、しかし、そこにこそ恋文の恋文たる所以があるのだろう。微笑や苦笑や、はたまた困惑や喜びをもたらす恋文の構造を分析してみれば、その本質は「起承転転」に極まってくる。「さくらんぼ」を口にしながら、このとき作者はおだやかな微笑を浮かべているにちがいない。同じ作者に「恋文のようにも読めて手暗がり」がある。「さくらんぼ」の転転どころではない「起承転転」もなはだしい手紙なのだ。もちろん、作者は大いに困惑している。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


June 1962003

 二卵性双生児三文安よさくらんぼ

                           文挟夫佐恵

語は「さくらんぼ」で夏。ところで「二卵性双生児」を、作者はどう読んでほしいと思っているのでしょう。そのまんま「にらんせいそうせいじ」でも構わないわけですが、かなりの字余りになりますね。初見のとき、振仮名が小さくて読めず、後にレンズでよくよく見てみたら「にぬふたり」とありました。なあるほど、この字の読ませ方からして面白い。たしかに二卵性の場合は、言われてみないとわからない人もいますね。作者自身が双生児なのか、あるいは子供がそうなのか。いずれにしても、近しい存在の双生児のことを詠んでいます。でないと「二束三文」の措辞が、いささかの自嘲であることから逸脱してしまいます。私は双生児ではないのでわかりませんが、双生児や親の気持ちとしては、よく似ていることが一種のいわば誇らしさに通じるのでしょうか。それこそ「さくらんぼ」が似ていないと、つまり粒ぞろいでないと「二束三文」に値打ちが落ちてしまうように……。私には、似てないほうがお互いに間違われなくてよいとしか思えませんが、そうでもないと掲句は言っています。きっと、私などには理解不能な理屈を越えた何かがあるのでしょう。実は「さくらんぼ」を食べながら、私はいまキーボードを打っています。これだけ粒をそろえるためには、生産農家は大変でしょうね。二卵性の子供を産み育てるのだって大変だ。それが二束三文だなんて、この自嘲にはついていけそうもありません。『天上希求』(1981)所収。(清水哲男)


April 1742008

 つばな野や兎のごとく君待つも

                           鬼頭文子

色の穂がたなびく「つばな野」でうさぎのようにじっとうずくまって、あなたを待っていますよ。と愛しい人に呼びかけている。「君」は短歌でもおもに恋の歌に用いられる人称。「待つも」ととまどいを残した切れが、帰ってくるかどうかわからない人を待つ不安を反映させている。四月末から五月にかけて白い穂をたなびかせるつばな野は春の野に季節はずれの秋が出現したようで、不思議に美しい。遠くから見ると銀色に光る穂綿がうずくまる兔の背のように見えるだろう。膝下ぐらいの高さに群生するこの草が神社でくぐる「茅の輪」になるという。鬼頭文子の夫は絵の勉強のため単身フランスへ渡っていた。愛らしい兔に投影されている女の姿は不満を漏らさず男の帰りをじっと待つ女の愛のかたちでもある。「待つわ」という歌もあったが意地悪な見方をすれば、待っている自分のけなげさに酔っているようにも思える。待つ、待たれる男女の関係は今変化しているのだろうか。「春の風あいつをひらり連れてこい」とは20代の俳人藤田亜未の句集『海鳴り』(2007)の中の恋句。このような句を読むと湿りのない現代的な恋の感覚に思えるが、もう一方で「さくらんぼ会えない時間は片想い」と、呟くところをみると、半世紀を経ても、会えない時の心細さは文子と変わらないのかもしれない。『現代俳句全集』一巻(1958)所載。(三宅やよい)


May 1752008

 器ごと光つてをりぬさくらんぼ

                           小川みゆき

桜の間に、小さい桜の実がついている。熟すと赤紫になり舗道を染めたりするが、桜桃(おうとう)、いわゆるさくらんぼは、桜の実とは異なり、西洋実桜の実。昔は、桜の木にさくらんぼがならないのはなぜ?と思っていたが。その名の由来は、桜ん坊から来たとか、さくらももの転訛など諸説ある。桜桃は、ゆすらうめとも読むが、ゆすらうめというと子供の頃摘んでは食べた、赤褐色の小さな粒と甘酸っぱくて心持ちえぐい味がよみがえる。さくらんぼを摘んで食べる、という経験はなかったのだが、昨年、初めてさくらんぼ狩りというのを体験した。かなりの高木に、真っ赤な実が驚くほどたわわに実っているのを、次々とって食べる。天辺の方の、お日さまに近いところになっている実の方が甘いので、脚立で木に登る。この木の方が甘い、こっちの方が大粒、などと大のおとな達が夢中になった。そんなさくらんぼだが、かわいらしい名前と色や形に反して、果物としては高価である。きれいに洗って、ガラスの器に盛られたさくらんぼ。食べるのがもったいないような気分になってしばし眺めている。つやつやとした赤い実一つ一つについた水滴と器に初夏の日ざしが反射して、こんもりと丸い光のオブジェのようである。先だって、さくらんぼカレーというのが思いのほか美味、と聞いた。それこそもったいないような食べてみたいような。同人誌「YUKI」(2008・夏号)所載。(今井肖子)


June 2362009

 あにいもとわかれわかれよさくらんぼ

                           吉岡桂六

くらんぼは「桜ん坊」。「甘えん坊」や「朝寝坊」などと同様の親しみの接尾語を持つ、唯一の果実である。現実はともかく、イラストでは必ず二つひと組が基本で描かれるというのも、可愛らしく思う気持ちが働いているように思われる。掲句は、二つつながりのさくらんぼの一つを口に入れたとき、仲良しの兄妹を引き裂いてしまったような罪悪感がふっと生まれたのだろう。すべてを平仮名表記にすることで、赤黒いアメリカンチェリーではなく、きらきらと光る清々しい鮮紅色を思わせ、またふっくらした幼い日々を彷彿させる。桜の花がそうであるように、さくらんぼも収穫時には複数個が連なって結実しているが、箱入れの状態で花枝ごとに切り離し、ひと粒ごとにサイズ決定をするという。この作業にも掲句の気持ちが終始よぎっているのではないか。まるで意地悪な継母になったように、兄妹たちをばらばらにしていく。「ヘンゼルとグレーテル」「青い鳥」「白鳥の王子」など、童話で登場する兄と妹は、どれも困難を乗り越える永遠のモチーフであった。『若き月』(2009)所収。(土肥あき子)


May 2952010

 仏壇は要らぬさくらんぼがあれば

                           小西昭夫

笑んだ小さい写真一枚に、ガラスの器のさくらんぼ。初夏の風の吹き抜ける部屋で、またこの季節が来たわね、と写真に話かけたり。と、すがすがしい風景も想像される。果物の中で、これがとにかく大好物で、という話をよく聞く。他の食べものや野菜などに比べて、季節感が濃く、その時期にしか出回らないものが多いからだろう。知人にもいろいろいて、さくらんぼや西瓜を初め、無花果や枇杷から、ぐじゅぐじゅに熟した柿に目がないの、という人までいる。年に一度その旬を心待ちにする喜びがあるので、よりいっそう好きになるのだろう。仏壇は要らぬ、という断定の頑固さと、さくらんぼへの愛しさの結びつきに、作り事でない本心が見えて、おかしみのあとちょっとしみじみしてしまう。『小西昭夫句集』(2010)所収。(今井肖子)


June 2762010

 さくらんぼ笑で補ふ語学力

                           橋本美代子

は「えみ」と読みます。季語はさくらんぼ。いったいよくもこれほどかわいらしいものが世の中にあるものかと思うほどに、色艶も、大きさも、手と手をつなぎあっているその姿も、完璧な果物です。一生こんなものを眺めていられるなら、さぞや楽しい人生だろうと思うわけですが、この句はそれほどに楽な状況ではなくて、おそらく外人との会話に、困り果てている姿を詠っています。これで文法は正しいだろうか、とか、3単現のエスを忘れてしまった、とか、言いたい単語は頭の中にその姿を現しているものの、どうしてもその言葉が出てこないとか、困りきった挙句に笑ってごまかしています。35年以上も外資系の会社に勤めて、そのほとんどの期間において外人の上司の下で働いていた私としては、実に、人ごととは思えない句です。ところで、さくらんぼと、この状況とはどんな関係があるのでしょうか。困り果てた挙句に浮かび出た素直な笑顔が、弱さをありのままに出していて、なんとも無防備で無垢なかわいらしさをたたえていた、それゆえのさくらんぼなのでしょうか。『俳句のたのしさ』(1976・講談社)所載。(松下育男)


May 2752012

 愛憎や指に振子のさくらんぼ

                           山本花山

とえば、男と女が大喧嘩をして、男が出て行ったあと、女はさくらんぼの芯を指でつまみ、振り子のようにもてあそんでいます。愛憎という情動の振り子には、じつはさくらんぼと同じように噛めば甘く、しかし噛み切れない種があります。それは、吐き捨てられることもあれば、土に播かれて芽を出すこともあるでしょう。人の愛憎が、一粒のさくらんぼと同じ重みをもつ程ならば、すこし心が軽くなります。俳句に「愛憎」という言葉は通常使いませんが、「や」で切ったあと、「指」で爆発していた情動を小さくして、「振子」で熱を冷まし、「さくらんぼ」で浄化して、定型に納まりました。掲句でもし、女が指でさくらんぼをもてあそんでいるならば、掌中の珠のように、二人の関係の主導権を握っているということでしょうか。男からすれば、ちょっと困った解釈になってしまってどーもすいません。「現代俳句歳時記・夏」(2004・学研)所載。(小笠原高志)


June 1362013

 玉手箱風なり 開ければさくらんぼ

                           伊丹三樹彦

形名産「佐藤錦」を送っていただいたことがある。蓋を開ければぎっしりと大粒のさくらんぼがきれいに詰められていて、ルビー色に光るその美しさにため息が出た。詰められた箱は何の変哲もない白い果物用のダンボールだったのだけど、蓋を開けたときの感嘆はまさしく玉手箱を開けたときの驚きだった。掲句では、そうした感嘆の比喩ではなく詰められている箱そのものが玉手箱のようなので「玉手箱風」なのだろうか。この「〜風」が謎だけれど、箱詰めにされた「さくらんぼ」ほどきらめきが魅力的な果物はないように思う。その美しさは虚子の「茎右往左往菓子器のさくらんぼ」の自在さとはまた違った魅力がある。『続続知見』(2010)所収。(三宅やよい)


June 0662014

 美しやさくらんぼうも夜の雨も

                           波多野爽波

置法である。本来ならば、「さくらんぼうも夜の雨も美しや」となるところである。爽波は、まず、「美しや」と主観を強調する。さくらんぼのつやつやした美しさはもちろんのことだが、夜の雨が美しいというのは、個性的な感覚を感じさせる。土砂降りではなく、しとしとと、降っていたのであろう。「……も……も」の繰り返し表現が、ぽたぽた落ちる雨だれのようにひびいてくる。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


December 12122014

 浮寝鳥同心円を出でざりき

                           柴田奈美

とか鳰とか鴛鴦などは秋に渡来し越冬する。冬の間は湖水、河川、潟や海で餌をあさり寒い水の上で冬を過ごす。飛ぶもの潜るもの姿態は様々であるが、特に水上に浮かんで寝るものを浮寝鳥と言う。群れで渡来はするもののエサ取り羽繕いなど個別の生活作業もある。が常時仲間の気配を察知しながら落こぼれないように暮している。見渡せばみんな同心円の中でそうしている。一人は淋しい。寒くても貧しくても誰かと居ることは心強く嬉しい。他に<蜩や静かにその人を赦す><いち早く座ってをりぬ冷奴><病身の姉は叱れずさくらんぼ>などあり。『黒き帆』(2007)所収。(藤嶋 務)


June 2562016

 さくらんぼ洗ふ間近に子の睫毛

                           花谷和子

を迎えているさくらんぼ。今日も近所のスーパーで美しく陳列されていて、「はい、さくらんぼですよ、旬が短いさくらんぼ、今日はもう夏至、今が食べ時お買い得〜」と言っている青果売り場のおじさんの顔を思わず見てしまったが、「旬」とは四季がある日本らしいまこと良い言葉だなとあらためて思う。さくらんぼ、という音の響きやその形や色の愛らしさから、さくらんぼの句にはよく子供が登場するが、掲出句の、睫毛、は省略が効いていて俳句らしい表現だ。母の手が洗うさくらんぼをのぞき込む子の視線、その子に注がれている母の視線。長い睫毛の大きな目はさくらんぼよりきらきらしている。『季寄せ 草木花 夏』(1981・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


June 2962016

 すべすべもつやもくぼみもさくらんぼ

                           小沢信男

まれているのは、まぎれもないさくらんぼのいとしおさである。さはさりながら、それにとどまるものでないことは言うを待たない。「すべすべ」「つや」「くぼみ」――それらは、ずばり女体である。老獪な信男による女体礼讚となっていると読みたい。よって、このさくらんぼの形体も色つやも、さらに旨味さえもいや増してくるのだ。句が平仮名書きになっていることによって、なめらかさを強調していることにも注目しなくてはならない。きわどい句ではあるけれど、嫌味は寸分も感じられない。《骨灰紀行》のある信男にして、このエロティシズムはみごと! 何年か前、ある団体の詩のセミナーを山形市で開催することになり、担当していた私は、どうせなら、さくらんぼの時季に合わせたらいいという提案をして実現した。セミナーの翌日、高価な佐藤錦をみんなでうんざりするほど(木に登ったりして)食したことがある。「桜の坊」→「さくらんぼ」は日本に、佐藤錦、高砂、ナポレオンなどをはじめ1000種類があるという。もちろん生産量は山形県が圧倒的。信男の夏の句には「うすものの下もうすもの六本木」がある。掲出句は当初、第三句集『足の裏』(1998)に収められ、その後、全句集『んの字』(2000)に収録された。(八木忠栄)




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