週末は十五年ぶりに盛岡へ。年に一度の大旅行です。岩手山もこれで見納めか。晴れるといいな…。




2000ソスN5ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2252000

 たべ飽きてとんとん歩く鴉の子

                           高野素十

素十肖像
語は「鴉(カラス)の子」で夏。スズメやツバメの子の姿は親しいが、カラスの子は見たことがない。素十は写生に徹底した俳人だから、描写は正確無比のはず。カラスの子は、きっとこのようにあどけなくて可愛らしいのだろう。「とんとん」歩く姿を、一度は見てみたい。いまや都会の天敵視されているカラスも、「烏といっしょに かえりましょう」と一年生の教科書の『夕焼け小焼け』で歌われ、『七つの子』という童謡もあるほどに昔は愛すべき存在だった。それが、現在はこんな御触れ書きが出されるまでに、不幸な関係に入ってしまった。以下、近隣自治体の「お知らせ」より抜粋。「ヒナが育つこれからの時期は更に攻撃性は強まります。カラスは、捕ったり殺したりできませんので、被害を減らすためには、巣を撤去し、数を制限することが効果的な方法となります。巣の撤去は、全て樹木などの所有者の責任で行うことになっています。また、巣の中に卵やヒナがいる場合には、特別な許可が必要となります。……巣がある場合は、造園業者などに依頼して、早い時期に撤去するよう御願いします」。カラスにたまたま巣をかけられた樹木の所有者や管理者は、自分の責任で(つまり、自腹を切って)撤去すべしということ。知らなかった。気になるのは「特別な許可」の中身ですね。やがて「とんとん」歩きだす子ガラスの命を尊重するための、せめてもの法的配慮なのでしょうか。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


May 2152000

 グラジオラス妻は愛憎鮮烈に

                           日野草城

夏の花だ。村山古郷に「グラジオラス一方咲きの哀れさよ」がある。たしかに一方向に向いて咲きそろい、葉は剣の形をしている。が、少しもトゲトゲしい植物という印象はない。したがって「哀れ」とは「もののあはれ」の「あはれ」だろう。一方咲きの習性は、どうにもならぬ。こんなにも、すずやかで可憐な花なのに、何をどうしてそんなに頑張ってしまうのか。そんなグラジオラスの習性を妻のそれに例えたのが、掲句というわけだ。「愛憎」や「好き嫌い」が激しい。事物についても人物についても……。そんな細かいことまでに、いちいち愛憎をあからさまにしなくてもいいじゃないか。もっとゆったりと、安らかに生きてほしいよ。第一、そんなツンケンした態度は、あなたには似合わないのに……。そう思いながら、日々暮らしている。しかし、本日は暑さも暑し。だから、いささかのうとましい気持ちも湧いてきてしまう。「妻」はともかくとしても、引き合いに出されたグラジオラスには、いい迷惑な句ではある。こんなふうに言われたら、ますますかたくなに一方咲きに固執したくなるではないか(笑)。『俳諧歳時記・夏』(1984・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 2052000

 そもそものいちぢく若葉こそばゆく

                           小沢信男

もそも私たちが若葉や青葉というときに、たいがいは樹木についた新葉をひっくるめてイメージするはずである。ほとんど「新緑」と同義語に解している。いちいち、この若葉は何という名前の木の葉っぱで……などと区別はしないものだ。なかに「柿若葉」や「朴若葉」と特別視されるものもあるけれど、それはそれなりの特徴があるからなのであって、まさか「いちぢく」の葉を他の若葉と景観的に切り分けて観賞する人はいないだろう。そこらへんの事情を百も承知で、あえて切り分けて見せたところに句の妙味がある。誰もが見る上方遠方の若葉を見ずに、視線を下方身近に落として、そこから一挙に「そもそも」のアダムとイヴの太古にまで時間を駆けのぼった技は痛快ですらある。「そもそも」人類の着衣のはじまりは、かくのごとくにさぞや「こそばゆ」かったことだろう。思わずも、日頃関心のなかったいちぢくの葉っぱを眺めてみたくなってしまう。ただし、この諧謔は俳句だから面白いのであって、例えばコント仕立てなどでは興ざめになってしまうだろう。俳句はいいなア。素朴にそう感じられる一句だ。ついでだけれど、同様に青葉の景観を切り分けた私の好きな一茶の句を紹介しておきたい。「梅の木の心しづかに青葉かな」。梅の青葉です。言われてみると、たしかに「しづか」な心持ちになることができます。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)




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