部屋を片付けよう。昔、写真で見た安吾の部屋に酷似してきた。地震が起きたら、確実に下敷きだ。




2000ソスN5ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2052000

 そもそものいちぢく若葉こそばゆく

                           小沢信男

もそも私たちが若葉や青葉というときに、たいがいは樹木についた新葉をひっくるめてイメージするはずである。ほとんど「新緑」と同義語に解している。いちいち、この若葉は何という名前の木の葉っぱで……などと区別はしないものだ。なかに「柿若葉」や「朴若葉」と特別視されるものもあるけれど、それはそれなりの特徴があるからなのであって、まさか「いちぢく」の葉を他の若葉と景観的に切り分けて観賞する人はいないだろう。そこらへんの事情を百も承知で、あえて切り分けて見せたところに句の妙味がある。誰もが見る上方遠方の若葉を見ずに、視線を下方身近に落として、そこから一挙に「そもそも」のアダムとイヴの太古にまで時間を駆けのぼった技は痛快ですらある。「そもそも」人類の着衣のはじまりは、かくのごとくにさぞや「こそばゆ」かったことだろう。思わずも、日頃関心のなかったいちぢくの葉っぱを眺めてみたくなってしまう。ただし、この諧謔は俳句だから面白いのであって、例えばコント仕立てなどでは興ざめになってしまうだろう。俳句はいいなア。素朴にそう感じられる一句だ。ついでだけれど、同様に青葉の景観を切り分けた私の好きな一茶の句を紹介しておきたい。「梅の木の心しづかに青葉かな」。梅の青葉です。言われてみると、たしかに「しづか」な心持ちになることができます。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


May 1952000

 牡丹を見つ立つてをり全き人

                           小川双々子

者の視線と関心は、おのずから「全き人」にむかう。どんな人なのだろうか。昔から牡丹は美人の比喩に使われてきたから、凄い美人なのかもしれない。あるいは、人間世界を超越した神に近い人物という印象であるのか。説明がないので、それこそ「全く」わからない。でも、それでよいのである。この「全き人」には、姿がない。いや、姿はあるのだけれど、「全き」と作者が言ったと同時に、忽然と姿は消えてしまったのだ。そう思った。なぜなら、この句は、牡丹と牡丹を見ている人のそれぞれの姿をただ並べているのではなく、牡丹と見ている人の「関係」の充実性を詠んでいるのだからだ。花の美しさが極まり、それを見る人の感興が極まった場面の呼吸を、作者は提示したかった。すなわち、姿かたちなど問題にならないほどに、両者はお互いに高まっているのであり、このときに見る人を言葉で表現するとすれば「全き人」とでも言うしかないという句なのだと思う。このように花を見るときに、誰でもが「全き人」となる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


May 1852000

 氷菓舐め暢気妻子の信篤し

                           清水基吉

じ年(1956年・昭和31年)の句に「門前の水温む貧躱し得ず」がある。「躱し」は「かわし」。作者は芥川賞受賞作家であったが、いまとは違い経済的に恵まれることもなく「昭和卅年の頃から生活に行きづまり、右往左往して感情また定まらぬところがあった。妻子をかかえて、居處を輾々とし……」という記述が句集の後書きに見える。一家の主人たるもの、お手上げの図だ。そんな主人の気持ちなど露解さない様子で、妻子がアイスキャンデーを暢気(のんき)に舐めている。作者もまた、暢気そうに舐めている。が、この一見明るい構図は辛いのだ。すなわち妻子に「こいつらめが」と思うと同時に、「こいつらめ」は俺を全面的に信頼しているのだなと感じていて、ますますプレッシャーの度合いが強くなってくる。「こいつら」のために、早くなんとかしなければと焦る気持ちが高じている。昔の男は大変だった。いや、いまだってまだ、さして事情は変わっていないだろう。どのみち、こうした家族の経済構造は崩れていくのだろうが、そんな暢気な一般論はさておき、目前の生活を少しでもよくするために今日も焦っている男たち。もとより私もその一人であり、ひたすら生活のためにのみ働くことの苦さを、この句につくづくと思う。『宿命』(1966)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます