さて、くだらねえ日常が戻ってきた。と、思う人は幸福だ。IT革命って人減らしの方策じゃないの。




2000ソスN5ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0852000

 青草の朝まだきなる日向かな

                           中村草田男

だすっかり夜の明けきらぬころ、窓を開けると、今日もいい天気。勢いよく生い茂る夏草の上には、早くも朝日が日向をつくっている。すがすがしく心地よい情景だ。胸中には、おのずから今日一日を生きるための活力がわいてくるようである。草田男は夏が好きな人で、「毒消し飲むやわが詩多産の夏来る」は有名。事実、夏の句を多く残した。ところで、仕事との関係からではあるが、四十代以降からの私は早起きになった。それまでは午前四時ころに寝ていたのが、百八十度回転した。だから、私にこの句の味わいがわかったのは、二十年前くらいのことだった。これからの季節、しばらくは毎朝、青草の日向が楽しめる。たまさか曇っている朝だと、なんだか大損をしたような気にすらなってしまう。「朝日影」という言葉があって、辞書的定義では「朝の光」をさすが、これは早朝の日差しがもたらす「光」と「影」のコントラストの美しさを言った言葉だと思う。昔かよった田舎の小学校の校歌に、いきなり「朝日影」と出てきた。作詞者は、その学校の教師だったと記憶している。きっと、早起きの大好きな先生だったのだろう。『長子』(1937)所収。(清水哲男)


May 0752000

 遠足をしてゐて遠足したくなる

                           平井照敏

読、膝を打った。こういう思いは、私にも時々わいてくる。こんな気持ちには、何度もなった覚えがある。映画を見ているのに映画が見たくなったり、酒の席で無性に酒が飲みたくなったりするのだ。実際にはその行為のなかにあるというのに、なおその行為の別のありように魅かれてしまう。そう言えば、恋愛中には必ず恋愛をしたくなるという友人の話を聞いたこともある。どういうことだろうか。図式的に言えば、現実と理想とのギャップのしからしむるところなのだろう。楽しみにしていた遠足にいざ出かけてみると、こんなはずじゃなかった、もっと楽しいはずなのにと思ううちに、現実の行為が空虚になっていく。空虚になった分だけ、現実を認めたくなくなる。だんだん、こんなのは遠足じゃないと自己説得にかかりはじめる。そして、ああ(本当の)遠足に行きたいなあと思ってしまうのだ。「旅行の楽しさは準備段階にある」と言ったりする。準備段階にあるうちの理想は、実行段階での現実に裏切られることはないからだ。この種の思いは、現実をまるごと受け入れたくない気質の人に、多くわいてくるのだろう。いわゆる「気の若い人」に、特に多いのではあるまいか。「俳句研究」(2000年5月号)所載。(清水哲男)


May 0652000

 竹陰の筍掘りはいつ消えし

                           飴山 實

いさきほどまで黙々と筍を掘っている人を見かけたが、いつの間にか、その人の姿はかき消されたように見えなくなっている。作者もまた、同じ竹林のなかで掘っているのだろう。暗く湿った竹の陰での、ほとんどこれは幻想に近い光景だ。単なる実景写生を越えて、句は濃密な歴史的とも言える時間性を帯びている。読んだ途端に、私は村上鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」を思い出した。鬼城は遠望しているが、作者はより対象に迫った場所から詠んでいる。昔から人はあのように竹林に現れては筍を掘り、またこのようにふっと姿を消していく。その繰り返しに思われる人間存在のはかなさは、もとより作者自身のそれなのでもある。しかし、作者は侘びしいなどと言っているのではない。筍堀りに込められた充実した時間性が、ふっふっと繰り返し消えていく。消えたと思ったら、また繰り返し現れる。その繰り返しのなかで、人は人らしくあるしかないのだ。いわば達観に近い鬱勃たる心情が、句の根っこに息づいている。『花浴び』(1995)所収。(清水哲男)




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