近所に車でやってくる八百屋さんは野球好き。彼の聞くラジオTBSと私のTBSが微妙にハモッて愉快。




2000ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2342000

 揚げ物の音が窓洩れ春夕焼

                           三村純也

に「夕焼」といえば、夏の季語。もちろん一年中「夕焼」は現れるが、季節ごとにおもむきは異る。「春の夕焼」はいかにもやわらかく、夏近しを思わせる光りを含んでいて心地よい。そんな夕焼け空の下で、近所の家から揚げ物をする音が聞こえてくる。暖かいので、窓も細目に開けられているのだろう。だとすれば、美味しそうな匂いも漂ってきている。生活の音にもいろいろあるが、台所からのそれは、とりわけて人の心をほっとさせる。食事の用意には、家族の健康と平和が前提になるからだ。べつに何ということもない句ではあるけれど、この句もまた、揚げ物の音のように読者をほっとさせてくれる。このようにほっとさせてくれる句を、無条件に私は支持したい。他の文芸では、なかなか得られぬ感興だからである。作ろうとしてみるとわかるが、意外にこういう句はできないものである。凡句や駄句と紙一重のところで、ほっとさせる句はからくも成立しているとがよくわかる。いうところの無技巧の技巧が要求される。下手を恐れぬ「勇気」が必要となる。だから、難しい。「俳句文芸」(2000年4月号)所載。(清水哲男)


April 2242000

 行く春やみんな知らない人ばかり

                           辻貨物船

節の春はもとより、人間の春も短い。詩人は「行く春」の季節のなかで、みずからの青春を追想しているように思える。林芙美子は「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と、みずからの青春を「花」に擬したが、これは女性に特有の感覚だろう。女性に特有の感覚だからこそ、男に愛唱される一行となった。男の感覚には、存外まわりくどいところがある。ぴしゃりと「花」に行き着くことなどは、めったにない。根っこのところで、いつも行き暮れている。茫洋とし、かつ茫然としている。常識では、この様子を「シャイ」と言ったりするわけだが、正体を割ってみれば、行き暮れているだけのこと。ときに男が「蛮勇」を振るうのも、そのせいである。男の詩人にとっての詩は、いわば「蛮勇」の振るい場所なのだ。辻の最後の詩集のタイトルは『萌えいずる若葉に対峙して』と名づけられており、明確に「蛮勇」が露出している。ひるがえって、彼が真剣に俳句と遊んだ理由は、そこが必ずしも「蛮勇」を要求しない場所だったからだ。行き暮れたまま、そのままに内心を吐露することができたからだと思う。句の「知らない人」とは、もちろんアカの他人も含んでいるが、男の感覚にとって重要なのは、このなかには親も兄弟も、連れ合いも子供も、友人知己もが「みんな」含まれているところだ。「蛮勇」を振るわなくとも、俳句ではそういうことを「行き暮れ」たままに言うことができる。今年の春も、もう行ってしまう。『貨物船句集』(2000・井川博年編・私家版)所収。(清水哲男)


April 2142000

 暗殺の寝間の明るさ蝶の昼

                           守屋明俊

句お得意の明暗対比の技法。どこだろうか。かつて歴史的な暗殺事件のあった家屋が公開されており、観光名所のようになっている。暗殺現場であったという寝間に入ってみると、とても伝えられるような陰惨な殺しがあった部屋とは思えない。説明の人が柱や欄間に残る刀傷を指さしたりしてくれるのだが、なんとなく腑に落ちるような落ちないような……。真昼の明るさが、暗殺の生臭さを遮るのだ。加えて、暗殺の政治的有効性がゼロになった現代という時代性が、かつての暗殺理解を拒むからでもある。部屋の障子は大きく開け放たれ、明るい庭に目をやると、蝶がひらひらと春風に流れているのが見える。どなたにも、きっと同種の体験はおありだろう。私など、こうした建物や部屋に入ったときにいつも感じるのは、昔の人(大昔からつい五十年ほど前までの大人たち)の平均的な背丈の小ささだ。「五尺の命ひっさげて」とある戦前の歌を証明するように、玄関からして首を縮めて入らないとゴツンとやりそうになる。だから、現代人はとてもあんなに小さな空間で刀なんぞは振り回せないだろう。心理的にはそういうことも働いて、史実の暗さや生臭さはいっそう遠のいてしまうのかもしれない。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)




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