いずれ詳しく述べますが、スウェーデン俳句を五七五に翻案中。彼の国の人の「祖国」意識は高い。




2000ソスN4ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1842000

 わが屋根をゆく恋猫は恋死ねや

                           藤田湘子

となく夜となく、屋根の上で狂おしくも鳴きわめく恋の猫。この句、だいぶ前から知ってはいたけれど、「恋死ねや」が理解できないまま頭にひっかかっていた。どういう意味なのか。「そんなに恋い焦がれていると、いずれ衰弱して死んでしまうぞ」ということなのだろうか。よくわからなかった。で、最近になってたまたま「俳句研究」(2000年4月号)を見ていたら、「湘子自註」という連載がはじまっており、句の自註が載っていた。「やった」と飛びついて、しっかりと読んだ。以下、全文。「(昭和)二十八年に大森の下宿から荻窪の下宿に移った。ばかに猫が多いと思ったのは、主の老婆が野良猫どもに餌を与えるからだった。隣家にはソプラノの発声練習を憚らぬ老嬢。大森とはまったく違った声、声、声。それでやや業を煮やした一句」。そうだったのか。私は、やや無理をして「や」を詠嘆的にとらえていたようだ。ストレートに「こいじねや」と読んで、「やかましいッ、お前なんぞは勝手に恋に狂って死んでしまえッ」と、業を煮やした末の怒りの発声だったのだ。しかも、うるさかったのは猫だけじゃなかったのだが、恋猫に八つ当たりをした句でもあった。しかし、そこまでは誰にも読めはしない。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


April 1742000

 天が下に風船売となりにけり

                           三橋鷹女

語は「風船」で、春の句。作者自身が「風船売」になったのではない。そのようにも読めるが、街で「風船売」を見かけて、すっと自分の心を重ねて詠んだ句だ。ただし、重ねたとはいっても、境遇や存在そのものを重ねたのではなく、「なりにけり」という感慨の部分で「風船売」と自分とを重ね合わせている。平たく言えば、彼は「風船売」、こちらは「俳句売」、いずれにしても「なりにけり」なのであり、もはや「風船売」も「俳句売(俳人)」も後戻りはできない。人生、お互いに取り返しはつかないのである。どちらの職業がどうなどと、言っているわけでもない。もはや、これまで。お互いに、ほとんど空気を売っているようなもので……と、いささかの自嘲も込められている。この句の諧謔性(飄逸味)を高く評価する人もいるけれど、諧謔を越えたなにやらしんみりとした味わいのほうへと、私の感受性は自然に動いてしまう。どんな職業の人であろうとも、いつしか「なりにけり」の感慨を持ちはじめるだろう。その職業に、満足しているかどうかは別問題だ。人生はおそらく「なるようにしかならぬ」のではなくて、結局は「なりにけり」にしか「ならぬ」のである。掲句は、そういうことを言おうとしている。『白骨』(1952)所収。(清水哲男)


April 1642000

 耕人に傾き咲けり山ざくら

                           大串 章

の段々畑。作者は、そこで黙々と耕す農夫の姿を遠望している。山の斜面には一本の山桜があり、耕す人に優しく咲きかかるようにして花をつけている。いつもの春のいつもと変わらぬ光景だ。今年も、春がやってきた。農村に育った読者には、懐しい感興を生む一句だろう。「耕人」という固い感じの文字と「山ざくら」というやわらかい雰囲気の文字との照応が、静かに句を盛り上げている。作者自註に、こうある。「『傾き咲けり』に山桜のやさしさが出ていればよいと思う。一句全体に生きるよろこびが出ていれば更によいと思う」。山桜の名所として知られるのは奈良の吉野山だが、このようにぽつりと一本、人知れず傾き立っている山桜も捨てがたい。古来詩歌に詠まれてきた桜は、ほとんどが「山桜」だ。ソメイヨシノは明治初期に東京の染井村(豊島区)から全国に広まったというから、新興の品種。あっという間に、桜の代表格の座を占めたようだ。だから「元祖」の桜のほうは、わざわざ「山桜」と表記せざるを得なくなったのである。不本意だろう。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)




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