ぽつりぽつりと木蘭が咲きはじめた。蕾をねらって鴉がやってくる。春の彼らは気が立っている。




2000ソスN3ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2232000

 連翹の奥や碁を打つ石の音

                           夏目漱石

には黄色い花が多い。連翹(れんぎょう)もその一つだ。渡辺桂子に「連翹の何も語らず黄より葉へ」とあるように、早春、葉の出る前に鮮黄色の四弁花をびっしりと咲かせる。これから咲きはじめる地方もあるだろう。句景は、まことに長閑。通りかかった連翹の咲く家のなかから、パチリパチリと石を置く音がしている。暖かいので、縁側で打っているのかもしれない。この句を読んで、母方の祖父を思い出した。リタイアした後は、毎日のように碁敵の家にいそいそと出かけていた。そんなに面白いものなら教えて欲しいと頼んでみたら、「学生はこんなもの覚えるもんじゃない」とニベもなかった。「時間ばかりかかって、勉強の邪魔になる」というのが、彼の拒絶理由であった。そこで私はひそかに入門書を買ってきて、なんとか置き方を覚えたところで、悪友と一戦まじえてみることにした。二人ともド素人だから、いま思い出しても悲惨な戦いだった。要するに、力の限りのねじり倒しっこ。加えて私は短気なので、辛抱ということを知らない。まるで碁にならないのである。性に合わないと間もなく悟り、すっぱり止めてから四十年。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)


March 2132000

 春の蛇座敷のなかはわらひあふ

                           飯島晴子

まえられているのは「蛇穴を出づ」という春の季語(当歳時記では、ここに分類)だ。冬眠していた蛇が、穴から這い出してくることを言う。したがって、この蛇はひさしぶりの世間におどおどしている。ぼおっともしている。そこへ、座敷のほうからにぎやかな笑い声が聞こえてきた。笑い声が聞こえてきた段階で、蛇は作者自身と入れ替わる。途端に、すうっと胸の中に立ち上がってくる寂寥感。人がはじめて寂しさを覚えるときの、あの仲間外れにされたような、誰もかまってくれないような孤独感を詠んでいるのだ。実存主義とは何かという問いに答えて、ある人が「電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも、みんな私のせいなのよ」みたいな思想だと言ったことがある。句の気分は、その類の揶揄を排した実存主義の心理的感覚的な解剖のようにも、私には写ってくる。蛇が大嫌いな人でも、句の世界はしみじみと納得できるだろう。この季語には、美柑みつはるに「蛇穴を出て野に光るもの揃ふ」、松村蒼石に「蛇穴を出づ古里に知己少し」などの多くの佳句もあるが、蛇と作者がすうっと入れ替わる掲句の斬新な発想には、失礼ながらかなわないと思う。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)


March 2032000

 春一番来し顔なればまとまらず

                           伊藤白潮

春以降はじめて吹く強い南風が「春一番」。元来は、壱岐の漁師の言葉だったという。吹く風の勢いや方角に、並外れた神経を使って生活している人たちも、たくさんいるのだ。それが「春一番」ともなると、とてもキャンディーズの歌のように暢気にはなれない暮らし……。句の「まとまらず」は卓抜な表現だ。思わず、膝を打った。「ひどい風ですねえ」と入ってきた人。強い風のなかを歩いてきたので、髪は大いに乱れ、しかめっ面にして吐く息もいささか荒い。コンタクトを使っている人だったら、おまけに涙さえ流しているだろう。そんな人の顔つきを一瞬のうちに「まとまらず」と活写して、句が見事に「まとまっ」た。なるほど、人間の顔は時にまとまっていたり、まとまっていなかったりする。江戸っ子風に言うと「うめえもんだ」の一語に尽きる。こういう句に突き当たることがあるから、俳句読みは止められない。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)




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