恒例「アサヒグラフ」での予想。パは西武、ダイエー、ロッテ。セは中日、横浜、阪神。以下・。




2000ソスN3ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0532000

 準急のしばらくとまる霞かな

                           原田 暹

急に乗っているのだから、長旅の途中ではない。ちょっとした遠出というところだ。ポイントの切り換えか、後からの急行を追い抜かせるためか、いずれにしても、数分間の停車である。急いでいるわけでもないので、春がすみにつつまれた周辺の風景を、作者はのんびりと楽しんでいる。急行だったら苛々するところを、準急ゆえの、この心のゆとり。車内もガラガラに空いていて、快適な環境だ。こんなときに私などは、どうかすると、このままずうっと停車していてほしいと思うときがある。時間通りに目的地に着くのが、もったいないような……。都会の「通勤快速」だとか「快速電車」だとかは、命名からしてあわただしい感じだけれど、「準急」とはよくも名付けたり。名付けた人は、単に「急行」に準ずる速さだからと散文的に考えたのだろうが、なかなかにポエティックな味がある。同じ作者に「折り返す電車にひとり日永かな」もあって、ローカル線の楽しさがにじみ出ている。「鉄道俳句」(?!)もいろいろあるなかで、地味ながら異色の作品と言ってよいだろう。ああ、どこかへ「準急」で行きたくなってきた。『天下』(1998)所収。(清水哲男)


March 0432000

 卒業歌遠嶺のみ見ること止めむ

                           寺山修司

者の生きた年代からすると、戦後もまだ数年というときの卒業式だ。歌っている卒業歌は、どこの学校でも『仰げば尊し』と決まっていた。その一節には「身を立て名を揚げ、やよ励めや」とあり、卒業生の理想的な未来像が指示されている。で、歌いながら「遠嶺のみ見ること止めむ」というのだから、明らかに寺山少年は、このフレーズに反発している。同じころに「たんぽぽは地の糧詩人は不遇でよし」と書いた少年だもの、なんで、旧弊な出世主義的理想像にうなずくことができようか。その意気や、よしである。昔の少年の反骨精神、純情とは大抵このようなかたちをしていた。ただし、実業の世界ではなかったにせよ、青森から東京に出てきた後の寺山修司の仕事ぶりを思うとき、私は複雑な心で掲句を見つめざるを得ない。彼ほどに「身を立て名を揚げ、やよ励めや」と、詩歌や演劇活動に邁進した男も珍しいからだ。この句を作ったときに、既にして彼は、別の意味での立身出世の「遠嶺」のみは、しっかり見ていたのだろうか。でも、そんな意地悪な味方をするのは止めにしよう。この「純情」こそを味わえばよいのだと、一方で私の心はささやきはじめている。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(清水哲男)


March 0332000

 われの凭る壁に隣は雛かざる

                           飴山 實

羽打ち枯らした浪人が、長いものを抱くようにして壁に凭(もた)れかかっている。もはや進退きわまったという姿。長屋の壁は薄いので、隣家で雛祭を寿ぐさんざめく笑い声などが聞こえてくる。ホーホケキョ。「もう、春か」。……というような情景では、まったくない(笑)。しかし、こんな情景に通じるような落魄の心持ちが、作者にはあったのだろう。この明暗の対比が、近代的抒情効果を生む仕掛けの正体だ。一方、隣の部屋には、笑いさざめく人たちの間に、こういう年老いた女性も静かに座っている。「来し方や何か怺へし雛の貌」(菅井富佐子)。毎春見慣れてきた雛の顔であるが、こうやってつくづく眺めていると、何か物言いたげなようであり、それを懸命に怺(こら)えているようである。さながら私の人生のように、言いたいことも言わずに、雛もここまで過ごしてきたのか。人形に感情移入できるのは、やはり女性に特有の才質の一つと言うべきだろう。今日飾られている雛人形には、雛の数だけ、それぞれの女性の思いがこもっているのだ。そう思うと、いかに私のごとき暢気な男でも、あらたまった気持ちにさせられる。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)




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