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February 1422000

 老教師菓子受くバレンタインデー

                           村尾香苗

生徒からリボンをかけた小函を差し出されて、一瞬いぶかしげな表情になる。が、すぐに破顔一笑「ありがとう」という光景。きっと、先生の笑顔は素敵だったろう。題材を「老教師」にとったところが、作者の腕前を示している。バレンタインデーのいわれは、いまさらのようだから省略するが、こうしたほほ笑ましい交歓を生んできたところもあり、一概にチョコレート屋の商業戦略をののしってみたところではじまるまい。「義理チョコ」というミもフタもない言葉もあるけれど、この場合はそうではなく、やはり真っ当な愛情表現の一つになっている。この日の句では、小沢信男の「バレンタインデー樋口一葉は知らざりき」も傑作だ。彼女の薄幸の生涯を想うとき、句にはまことに哀切な響きがあると同時に、返す刀で「義理チョコ」世相の軽薄を討つ姿も見て取れる。で、ひさしぶりに、一葉の淡い愛の世界を読みたい気分になった。ついさきほど、たしかこのあたりに文庫本があったはずだと書棚を眺めてみたが、見当たらない。発作的にある本が読みたくなったときに、こうして、私は同じ本を何冊も買う羽目におちいってしまう。昔からだ。(清水哲男)


February 1422004

 バレンタインの日なり山妻ピアノ弾く

                           景山筍吉

日は、西暦270年にローマの司教・聖バレンタイン(ヴァレンティノス)の殉教した日。後顧の憂いを絶つため、遠征する兵士の結婚を禁じたローマ皇帝クラウディウスに反対したために処刑されたという。多くの若者たちが、深い絶望を感じた日だったろう。それにしても、ローマは乱暴だった。シーザーの例を持ちだすまでもなく、とにかく派手な殺し合いが横行していた。作者はキリスト者で、戦争の時代もくぐっている。だから、巷間のチョコレート騒ぎから距離を置き、妻の弾くピアノに耳傾けながら、訪れた平和なひとときを楽しみ微笑している。もう一句。「老夫婦映画へバレンタインの日」。ところで、この「山妻(さんさい)」という言い方。「山の神」などと同じく、妻を第三者に向けて紹介するときの謙称、へりくだった表現である。なぜ妻と「山」とが結びつけられてきたのかについては諸説あり、いちばんひどいのは「山の神は不美人の女神」という説だ。美人の女神があれば、他方に不美人の女神もあってよいというわけだろう。伝承では彼女の好物はオコゼだということによくなっていて、これはオコゼが自分より不細工なので優越感に浸れて喜ぶからだと、実に意地悪だ。このことを知っていて使う男がいるとすれば、へりくだるにも程がある。通常ではそれほどの意味はなく、ま、山育ちで洗練されていないくらいのニュアンスだろうが、これでもまだひどすぎるか。しかし、だんだん使われなくなってきたのも事実で、「愚妻」や子供を指す「豚児」などとともに死語になりつつある。妻はむろんのこと、夫にとっても歓迎すべき傾向だ。心にもない過剰なへりくだりは、だいいち健康にもよろしくない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 1422006

 やけに効くバレンタインの日の辛子

                           三村純也

語は「バレンタインの日(バレンタインデー)」。すっかり定着した感のあるバレンタインの日。最初のころにはもぞもぞしていた俳人たちも、やっと最近では自在に扱うようになってきた。掲句も、その一つ。夕食の料理に添えて出された「辛子(からし)」が、普段とは違って「やけに効く」。思わず、妻にそのことを言いかけて止めたのだろう。そういえば、今日は「バレンタインの日」であった。もしかすると、日頃の行状の意趣返しとばかりに、チョコレートの代わりに辛子で何らかのきつい意思表示をされたのかもしれない。咄嗟にそう思ったからだ。いや、でもそんなはずはない。それは当方の思い過ごしというもので、第一,最前から彼女の様子を見ていると,今日が何の日であるかも忘れているようではないか。いや、でも待てよ。そこが、そもそも変だぞ。今日がどういう日かは、朝からテレビでうんざりするほどやっているし、ははあん、やつぱりこの辛子の効きようは尋常じゃない。だとすれば、何を怒っているのか。いったい、このオレに何を気づかせようというのだろうか。いや、それが何であれ、いまいちばん必要なのは冷静になることだ。それには、いつも通りに知らん顔して食べることだ。それにしても、よく効くなあ、この辛子……。などと、たまたまバレンタインの日であったがための取り越し苦労かもしれない「男はつらいよ」篇でした。『俳句手帖2006年春-夏』(富士見書房)所載。(清水哲男)


February 1422008

 バレンタインデーカクテルは傘さして

                           黛まどか

の子から好きな男の子へチョコを贈るこの日が日本に定着したのはいつからだろう?昭和40年代の後半あたりから菓子売り場にバレンタインコーナーができたように記憶しているが、どうなのだろう。私も一度意を決して片思いの彼にチョコをプレゼントしようとしたけど、手渡す機会がなくて結局自分で食べてしまった。以来バレンタインチョコが売り出されるたび自分のドン臭さが思い出されて少し哀しい。掲句、どこに切れを入れて読むかでいろんな場面が想像される。バレンタインデーカクテルはチョコレートリキュールをベースに作られた甘いカクテル。華やかな洋酒の瓶の並ぶバーのカウンターでカチンとグラスを合わせてバレンタインの夜を楽しんでいる二人、しかしそう考えると「傘さして」がわからない。屋台じゃあるまいし傘をさしながらカクテルを飲むわけはないし、カクテルのストロー飾りに傘がついているのだろうか。それとも洋酒入りのカクテルチョコレートを相合傘の彼に差し出した屋外の情景なのかも。謎めいた名詞の並びが色とりどりのバレンタインシーンを思わせる。今日は寒くなりそうだけど、鞄の底にチョコレートを忍ばせて出かけた女の子たちにとってよい日でありますように。「季語集」岩波新書(2006)所載。(三宅やよい)


February 1422012

 バレンタインデーか中年は傷だらけ

                           稲垣きくの

年とは何歳あたりが該当するのだろうとあれこれ見ていくと、一般的に40代から50代をいうようだ。あれこれのなかには「ミッドライフクライシス(中年の危機)」という言葉も目についた。一途でがむしゃらを許される青年期を越え、ほっとひと息つく頃、老いの兆しらしきものを次々と自覚し始める。「折り返し地点」という言葉に、やり直しの限界に直面していることに気づき焦燥感がつのる。そのせいか、この不安定な時期にいきなり恋に落ちてしまうこともあるようだ。悲哀というには重過ぎるが、それでも年齢を重ねれば、どんな人間でも心の傷も蓄積される。いくつもの傷痕や、まだふさがりきっていない傷をあらためて眺めては、とりあえずため息をついてみたりするが、実のところ、そのうち癒えるものだという経験もまた持ち合わせている。それもまた傷つきながら体得してきたものではあるが、それさえ中年というふてぶてしさに見えて情けなく思う。バレンタインデーなどという「告白の日」のばかばかしさにあきれながらも、その甘さに酔いたいときもある。また傷を増やすとわかっていても、いまだ愛がなにものにもかえがたい力を持つことを信じるのも中年が手放すことのできないロマンだろう。『冬濤』(1976)所収。(土肥あき子)


February 1822012

 小さくて大きなバレンタインチョコ

                           山本素竹

ョコレートで埋め尽くされていたデパ地下も、やっと平常の落ち着きを取り戻してやれやれ、といったところ。作者は筆者とほぼ同世代なので、現在のバレンタインデー事情とはだいぶ異なっていたのだろうと分かる。義理チョコ、友チョコ、自分チョコ、など少なくとも私の記憶にはない。好きな人にひとつだけ買って渡した覚えはあり、友人が学校では恥ずかしくて渡せず、それでも今日中に渡したいからつき合って、と言われて住所片手にうろうろ家を探した思い出も。携帯電話の無かった昭和四十年代の話だ。そんなあれこれをひょいと思い出させてくれたこの句、単純な言葉の対比が心の中で大きくふくらんで、ほのぼのしつつ、俳句ならではの表現と思う。『百句』(2002)所収。(今井肖子)


February 1422015

 バレンタインデー耳たぶに金の粒

                           佐藤公子

レンタインデーは、さまざまな変遷を経て今日に至っているが多くの女性は<いつ渡そバレンタインのチョコレート >(田畑美穂女)に思い出す一コマがあることだろう。掲出句の作者にとっても、そんな密かなドキドキは遠い思い出か。たまたま行き合わせたバレンタインデー直前のデパ地下、いつもの売り場がチョコレートで埋め尽くされている。そうかしまった、出直そう、と思いながら、チョコレートに群がる女の子達を見ている作者。やわらかい耳たぶに刺さって光る金のピアスは彼女達の若さの象徴であると同時に、その若さを目の当たりにした作者のもやもやとした何かを呼び覚ましたのかもしれない。私だって昔からおばあさんだったわけではないのよ、とは八十六歳の母の口癖だ。『松の花季語別句集』(2014)所載。(今井肖子)


July 0772015

 べうべうと啼きて銀河の濃くありぬ

                           小林すみれ

うべう(びょうびょう)は江戸期まで使われていた犬の鳴き声。動物や鳥の鳴き声の擬音は国により様々だが、時代によっても異なる。現在使われる「ワン」は従順で快活な飼い犬の声にふさわしく、「びょう」は野犬が喉を細くして遠吠えする姿が浮かぶ。今夜は七夕。天の川に年に一度だけカササギの橋がかかり、織り姫と彦星の逢瀬が叶う。このたびあれこれ調べるなかで「彦星」が「犬飼星」の和名を持つことを知った。今夜聞こえる遠吠えはすべて、いにしえの主人を慕う忠犬たちのエールにも思えてくる。〈開けられぬ抽斗ひとつ天の川〉〈バレンタインデー父をはげます日となりぬ〉『星のなまへ』(2015)所収。(土肥あき子)




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