蟄」隱槭′譏・縺ョ螟慕┥縺ョ句

February 0622000

 春の夕焼背番「16」の子がふたり

                           ねじめ正也

まり詠まれないが、「春の夕焼」はれっきとした季語。古人は、その柔らかい感じを愛でたのだろう。句は、子供らが暗くなるまで原っぱで遊んでいた戦後の光景だ。通りがかった(たぶん、自転車で)作者は、微笑して子供の野球を眺めている。私にも覚えがある。みんなのユニフォームはばらばらだ。それぞれが、好きなチームの好きな選手の背番号をつけて着ている。野球好きが見れば「ああ、あの子は巨人ファンだな」とわかり、背番号で誰のファンかもわかる。子供は、すっかりその選手になりきってプレイしているのので、それがまた見ていて楽しい。このときには「16」が二人いた。言わずと知れた「打撃の神様」川上哲治一塁手(巨人)の背番号だ。後に長嶋茂雄三塁手(巨人)の「3」などでも、このようなことは起きたけれど、川上時代ほどではなかったように思う。なにしろ、銭湯の下駄箱の番号でも、常に「16」は取り合いだったのだから……。テレビで野球を見られるようになって以降、背番号の重要度は希薄になってしまった。選手を覚えるのに背番号なんて面倒くさいものよりも、直接「顔」や「姿」で覚えられるからである。いつしか、私も背番号を覚えようとはしなくなった。今季の長嶋監督は、私などの世代には狂おしいほどに懐しい「3」をつける。でも、それで気張っているのは長嶋さん当人と我々オールド・ファンくらいのもので、選手を含めた若者たちは何も感じはしないだろう。ここらへんにも、今の巨人戦略の時代錯誤的脆弱さが露出している。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


April 2342000

 揚げ物の音が窓洩れ春夕焼

                           三村純也

に「夕焼」といえば、夏の季語。もちろん一年中「夕焼」は現れるが、季節ごとにおもむきは異る。「春の夕焼」はいかにもやわらかく、夏近しを思わせる光りを含んでいて心地よい。そんな夕焼け空の下で、近所の家から揚げ物をする音が聞こえてくる。暖かいので、窓も細目に開けられているのだろう。だとすれば、美味しそうな匂いも漂ってきている。生活の音にもいろいろあるが、台所からのそれは、とりわけて人の心をほっとさせる。食事の用意には、家族の健康と平和が前提になるからだ。べつに何ということもない句ではあるけれど、この句もまた、揚げ物の音のように読者をほっとさせてくれる。このようにほっとさせてくれる句を、無条件に私は支持したい。他の文芸では、なかなか得られぬ感興だからである。作ろうとしてみるとわかるが、意外にこういう句はできないものである。凡句や駄句と紙一重のところで、ほっとさせる句はからくも成立しているとがよくわかる。いうところの無技巧の技巧が要求される。下手を恐れぬ「勇気」が必要となる。だから、難しい。「俳句文芸」(2000年4月号)所載。(清水哲男)


April 2442002

 総金歯の美少女のごとき春夕焼

                           高山れおな

語は「春夕焼」。単に夕焼といえば、盛んに見られる夏の季語だ。夕焼は四季を問わずに出現するが、春の夕焼は柔らかな感じがするので、他の季節のそれとは区別してきた。で、この一般的なイメージに逆らっているのが、掲句。「よく見てご覧。そんなにうっとりと見つめられるような現象でもないよ」と、言っている。例えれば色白の「美少女」の柔らかい頬が少しゆるんで、にいっと「総金歯」が剥き出しになっているようじゃないか。そんな不気味なまがまがしさを含んだものとして、作者には見えている。なんともおっかない感受性だが、この句を知ってしまった以上、次に春夕焼を見るときにはどうしても総金歯にとらわれることになる。どのあたりが金歯なんだろうかと、じいっと見つめることになる。でも、この句を好きになれる人は少ないでしょうね。私も同様です。が、春の夕焼を固定観念でなんとなく見ている私などには、反省を強いられる句であることも確かだ。自分の感受性くらい自分で磨けと言った詩人がいたけれど、俳句を考えるときには季語の固定観念に引きずられて、どうも自分の感受性をないがしろにしてしまうところがある。読者に受け入れられようがどうしようが、固定観念では押さえきれない異物感があるのなら、金歯でもなんでも持ちだしてみることは、自分にとって大切なことなのだ。殊勝にも、そんなことを思わされた一句なのでした。蛇足。実際に、総金歯の人に会ったことがある。口の中に財産を貯め込む発想に、うっとりしていた変なおじさんだったけど。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます