先輩が目がかすむと言う。「白内障」と私は断定した。病気は先にやった者のほうがエラいのだ。




2000ソスN1ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2512000

 鬱としてはしかの家に雪だるま

                           辻田克巳

びに出られない子供のために、家人が作ってやったのだろう。はしかの子の家には友だちも来ないから、庭も静まりかえっている。家の窓からは、高熱の子がじいっと雪だるまを眺めている。なんだか、雪だるまの表情までが鬱々(うつうつ)としているようだ。雪だるまには明るい句が多いので、この句は異色と言ってよい。どんな歳時記にも載っているのが、松本たかしの「雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと」だ。「星のおしゃべり」という発想は、どこか西欧風のメルヘンの世界を思わせる。したがって、この場合の雪だるまは「スノーマン」のほうが似合うと思う。スヌーピーの漫画なんかに出てくる、あの鼻にニンジンを使った雪人形だ。よりリアルにというのが彼の地の発想だから、よくは知らないが、日本のように団子を二つ重ねた形状のものは作られないようだ。どうかすると、マフラーまで巻いたりしている。こんなところにも、文化の違いが出ていて面白い(外国にお住まいの読者で、もし日本的な雪だるまを見かけられたら、お知らせください)。雪だるまの名称は、もちろん達磨大師の座禅姿によっている。だから、堅いことを言えば、ホウキなどの手をつけるのは邪道だ。それだと、修業の足りない「達磨さん」になってしまうから。(清水哲男)


January 2412000

 日脚伸ぶ夕空紺をとりもどし

                           皆吉爽雨

なみに、今日の東京の日没時刻は16時59分。冬至のころよりは30分近く、夕刻の「日脚」が伸びてきた。これからは、少しずつ太陽の位置が高くなって、家の奥までさしこんでいた日光が後退していく。それにつれて、今度は夕空の色が徐々に明るくなり「紺」を取り戻すのである。この季節に夕空を仰ぐと、ひさしぶりの紺色に、とても懐しいような感懐を覚える。「日脚伸ぶ」という季語を、空の色の変化に反射させたセンスは鋭い。まさに「春近し」の感が、色彩として鮮やかに表出されている。私などは、本当の春よりも、新しい季節が近づいてくるこうした予感のほうに親しみを覚える。単なるセンチメンタリストなのかもしれないが、たまさか「よくぞ日本に生まれけり」と思うのは、たいていが移ろいの季節にあるときだ。一方、病弱だった日野草城には「日脚伸びいのちも伸ぶるごとくなり」という感慨があった。本音である。「生きたい」という願望が、自然の力によって「生かされる」安息感に転化している。病弱ではなくとも、「いのち」のことを思う人すべてに、この句は共感を呼ぶだろう。(清水哲男)


January 2312000

 おそく来て若者一人さくら鍋

                           深見けん二

の色が桜のそれに似ているので、いつのころからか「さくら」は馬肉の異称となった。寿司屋の符丁で、蝦蛄(しゃこ)を「ガレージ」と言うがごとし。ただし、このような半可通の下手な洒落を私は好まない。地下鉄丸ノ内線「新宿御苑」駅の裏手出口のそばに、「さくら鍋」を出す店がある。味噌仕立てではなく、鋤焼(すきやき)風に焼いて食べさせる。ここに仲間と、年に一度か二度あつまる。その都度、誰かの記念日であったり厄落としであったりするのだけれど、ま、みんなで飲む口実さえあればよいというわけ。句の場合も同じような集いであろうが、一人の若者がかなり遅れて来た。必ず来ることになっていたので、一人前だけ別にとってあった。それを、シラフの若者が黙々と食べている図である。なんということもないのだが、みんなが一度食べ終えた鉄の鍋で、桜色の馬肉を焼いている様子は、若者だけに侘びしいものがある。本来の若い血気が、しょんぼりしている。やっぱり、鍋はみんなでわいわいにぎやかに食ってこそ美味いのだ。それを、一人で食べている。よんどころない事情からだろうが、すまなそうな顔をしている。もうすぐ、会はお開きだ。いや、店との約束の時間はもう過ぎているようだ。「ちゃんと食えよ」。思いつつも、しかし作者ははらはらしている。『雪の花』(1977)所収。(清水哲男)




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